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高松高等裁判所 昭和55年(く)17号 決定 1983年3月12日

有罪の言渡を受けた者

亡冨士茂子

請求人(姉)

冨士千代

同(妹)

須木久江

同(弟)

冨士淳一

同(妹)

郡貞子

右弁護人

和島岩吉

外一六七名

右亡冨士茂子にかかる殺人被告事件の有罪確定判決に対する再審請求事件につき、昭和五五年一二月一三日徳島地方裁判所がした再審開始決定に対し、徳島地方検察庁検察官検事中靏聳から適法な即時抗告の申立があつたので、当裁判所は次のとおり決定する。

主文

本件抗告を棄却する。

理由

(略語表)

不1  冨士茂子に対する殺人被告事件の不提出記録全三冊中の第一分冊(「1」の数字は分冊を示す。以下同じ)

一偽2 西野清、阿部守良に対する第一回偽証被疑事件不起訴記録全七冊中の第二分冊

松山3 松山光徳に対する強盗殺人被疑事件不起訴記録全三冊中の第三分冊

川口4 川口算男に対する強盗殺人被疑事件不起訴記録全六冊中の第四分冊

一検審 第一次検察審査会記録

本件抗告の趣意は、徳島地方検察庁検察官検事中靏聳作成名義の即時抗告申立書及び同庁検察官検事和田博作成名義の即時抗告理由補充書に記載のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人和島岩吉ら作成名義の即時抗告申立書に対する反論書及び即時抗告理由補充書に対する反論書に記載したとおりであるから、ここにこれらを引用する。

第一  本件再審請求の経過

一  第一審判決(徳島地方裁判所昭和三一年四月一八日言渡)

(一)第一審判決は、公判において犯行を全面的に否認し、無実を主張していた被告人冨士茂子(以下茂子という。)に対し殺人罪を認定し同人を懲役一三年に処した。右判決の認定した罪となるべき事実の要旨は、「被告人は、昭和一七年ころラジオ商を営み妻子を有する三枝亀三郎(以下亀三郎という。)と親しくなり同人との間に佳子を儲け、このため亀三郎夫婦は不仲となつて昭和二二年ころ離別するに至つたが、被告人は亀三郎と事実上の夫婦となり、亀三郎と前妻との間の子供の面倒をみるとともに亀三郎の営業の補助者として立働いていたところ、亀三郎が昭和二六年ころから黒島テル子と懇ろとなり亀三郎に対し憤りの念を深く懐くうちたまたま旅行の招待券の分配のことから同女を厚遇せんとする亀三郎の真意を推察するや自己の行末を案じるとともに同女に対する嫉妬と亀三郎に対する憤まんの情を押えることができず、かくなるうえは亀三郎を殺害するに如かずと決意するに至り、犯行の方法、犯罪後の処置等周到に考慮したうえ、昭和二八年一一月五日午前五時ころ、亀三郎、佳子とともに居住していた徳島市八百屋町三丁目八番地の営業所奥四畳半の間において、刺身包丁を揮つて同衾中の亀三郎の頸部、腹部等を目がけて突き刺し、よつて間もなくその場で同人を右創傷に基づく失血により死亡せしめ殺害した」というのである。

(二)第一審判決が右事実の認定に供した証拠及びその理由として説示するところは概ね次のとおりである。

1 犯行の動機

証人三枝登志子の証言、黒島テル子の検察官調書、被告人の検察官調書(昭和二九年八月二九日付)等

2 外部者の侵入した形跡が全くない

証人石井雅次、同田中佐吉、同辻一夫、同中越明の各証言、実況見分調書等

3 被告人が本件犯行を外部から侵入した者の兇行であるかの如く欺瞞するため現場を偽装している

(イ) 犯行後店員西野清をして電話線及び電灯線を切断させている

証人西野清、同新開鶴吉の各証言、電話線、電灯線各二片の存在、実況見分調書等

(ロ) 被告人は事前に匕首を入手し犯行後これを新館風呂場焚口付近に立てかけている

証人阿部守良の証言、篠原澄子に対する尋問調書、実況見分調書、匕首の存在等

(ハ) かけつけた警察官に対し犯人が遺留したとして被告人から提出された懐中電灯は従前から被告人方にあつたものである

証人武内一孝の証言、懐中電灯の存在等

(ニ) 配電盤の蓋が被告人によつて開放された

証人坂尾安一、同真楽与志郎の各証言、検証調書等

4 被告人は犯行後証拠の隠滅につとめている

(イ) 犯行の用に供した刺身包丁を店員西野清をして川に投棄せしめた

証人西野清の証言等

(ロ) 現場の布団等を素早く片付けている

証人村上清一の証言等

(ハ) 警察官に米田なる者が犯人なりと指摘している

証人武内一孝の証言等

5 犯行後の被告人の態度に奇怪なものがある

証人西野清、同阿部守良、同新開鶴吉の各証言等

6 被告人が亀三郎の加害者である

(イ) 両者で格闘が行われているのが目撃されている

証人西野清、同阿部守良の各証言等

(ロ) 犯行の態様、傷害の部位等(最初の創は頸部頤下部に存する創傷であり、四畳半の間裏縁側付近において激しく格闘が行われ、その場で終熄した)

証人和田福由の証言、松倉豊治の鑑定書、実況見分調書等

7 被告人の自白調書(昭和二九年八月二六日付検察官調書)は任意性、真実性がある

二  第二審判決(高松高等裁判所昭和三二年一二月二一日言渡)

(一)被告人は右判決に対し控訴の申立をし、検察官は量刑不当を理由に控訴の申立をしたが、第二審判決は第一審判決の事実認定中、左記の二点につき事実誤認を認めたが判決に影響を及ぼさないとし、その余の事実認定を是認して、双方の控訴を棄却した。

A 被告人が犯行を決意したのは直前であつて、計画的な犯行ではない。すなわち、「一一月五日午前五時ころ目覚めて亀三郎の素行、仕打ちを考えるうち嫉妬の極更に自己将来に対する不安も加わり遂に亀三郎の殺害を決意した」ものである

B 頸部頤下部の創傷は腹部の刺創ののち加えられたものである

(二)第二審判決が有罪を維持した理由として説示するところを摘記すれば次のとおりである。

1 犯行の目撃、電灯線、電話線切断の事実、匕首の入手の事実について

(イ) 店員西野清、同阿部守良の各証言によれば、同人らは四畳半の間で茂子及び亀三郎と覚しき背丈の者が格闘しているごとく動いているさまが暗中にうす白くぼんやりと見えた旨証言している

(ロ) 右西野の証言によれば、同人は右目撃後茂子から匕首を渡されて電灯線と電話線を切るようにいわれ、屋上に上り匕首で電話線を切断し、電灯線は後に切ることとして下り茂子に匕首を返したこと、次いで茂子から大道にいる先妻の子らへの連絡とともに新聞に巻いた刺身包丁のごとき細長いものを渡されて捨てるよう命ぜられ自転車で行く途中両国橋でこれを捨てたこと、帰つてから電灯線を切るため屋上に上ろうとしたところ隣家の新開鶴吉に発見注意されて一旦下り、茂子が斉藤病院へ行き、自分は病院へ布団などを運び込み、着換えし洗顔したのち屋上に上り電灯線を切断して直ちに現場にきていた警察官に電灯線が切断されている旨申告するとともにその場所へ案内したこと、その後警察官に取調べを受けて帰宅後切断した電灯線を修理した旨述べている

(ハ) 右阿部の証言によれば、同人は昭和二八年一〇月下旬茂子の命で新天地の篠原方に行き女の人からハトロン紙に包んだ匕首を受取り茂子に渡し、二、三日後茂子に頼まれ匕首の柄に古いラジオのダイヤル糸を巻いた旨述べ、西野の証言によれば、同人は阿部がハトロン紙包みのものを持ち帰つたのを見、開けてみると一尺位の匕首があつた旨述べている

2 西野、阿部の証言を裏付ける証拠として次のものがある。

(イ) 電灯線、電話線切断の事実

(A) 証人新開鶴吉の証言―茂子の隣家に住む同人は茂子が病院へ出かけた後五分位して西野が寝巻きのまま二階へ上ろうとしていたので危いと注意した

(B) 証人櫛淵泰次の証言―徳島警察署巡査の同人は、午前六時三〇分ころ現場に行き西野から電線が切断されているとの申告を受け、同人の案内で屋上に上り電灯線、電記線の切断個所を見分して各切口を切断領置した

(C) 匕首一振、電灯線切端二本、電話線切端二本の存在―右匕首は新館風呂場焚口付近に刃を上にして壁に立てかけていたものであり、阿部が新天地の篠原方から持帰つたものであり、西野がこれを用いて電話線を切断したものである。電灯線、電話線の切断は櫛淵の切断領置したものである

(D) 警視庁科学捜査研究所長の回答及び佐尾山明作成の鑑定書―電話線、電灯線は匕首のごときナイフ様の工具により切込の後折り曲げて切断したものである。匕首の刀身、柄の部分に血液型不明の血痕の付着があり、刃先の方に刃こぼれがあつて銅粉の付着が認められる。

(E) 証人坂尾安一、同四宮忠正の各証言―四国電力徳島営業所の右両名は、午前五時五〇分修理申込の電話を受け、坂尾が同六時ころ茂子方に赴き開いていた配電盤の蓋を閉めると点灯した旨供述。従つて西野の電灯線の切断はその後のことである。

(ロ) 後日西野、阿部は事実を打明けていること。

(A) 証人喜田理の証言―西野の中学時代の教員である同証人は、昭和二九年夏西野が拘束され保護観察処分を受け釈放された時迎えに出向いた際、西野の話として、茂子に電灯線と電話線を切るよう命ぜられたこと、茂子から新聞紙包みの刺身包丁を渡され両国橋の上から投げ込んだことを聞いた旨供述

(B) 証人石川幸男の証言―元茂子方店員で西野とともに勤務したことがある同証人は、昭和二九年四月三日ころ祭に西野を招待した時西野に事件の話を聞くと、同人は茂子から電線を切つてこいといわれて切つた旨話していたと供述

(C) 証人阿部幸市の証言―阿部守良の兄である同証人は、昭和二八年一二月末ころ弟守良とともにラジオを聞いているとき丁度ラジオは本件について川口某の逮捕を報じており、守良は自分が駅前の方から包丁らしいものを預つてきたことがあると話していた、同人が釈放された時事件のあつた際茂子が夫婦げんかをしているのを見たといつていた旨供述

(ハ) 匕首の出所経路につき阿部の証言に符合する証人

証人佐野辰夫の証言、証人辻本義武の証言、証人児玉フジ子の証言、篠原澄子の昭和二九年八月二五日付裁判官の証人尋問調書、八月二三日付検察官調書二通

3 被告人の昭和二九年八月二六日付、同二七日付検察官調書(自白)

4 次の状況証拠は被告人の犯行の状況の一端を示している

(イ) 犯行現場の血痕等の付着状況、被告人の左季肋部の刺傷は被告人の弁解と矛盾する

(ロ) 亀三郎の左掌の刃物を握つたと認められる創傷

(ハ) 被告人の寝巻に存する亀三郎の血液

(ニ) 犯行現場に敷いてあつた夜具布団を逸早く取片づけている

(ホ) 現場四畳半西北隅押入の板戸が割れその傍のポスターに血痕が付着している(西野、阿部の目撃状況に符合)

5 外部から犯人侵入の形跡がない

6 その他被告人の態度は外部から侵入した犯人の兇行があつた直後の態度としては不可解、被告人の犯人目撃状況の不自然、被告人が警察官に賊が遺留したとして提出した懐中電灯は被告人方の物、佳子の犯人目撃状況は信用できないこと等

三  上告審(取下)

被告人は上告の申立をしたが、昭和三三年五月一二日上告を取下げ、第一審判決は確定した。

四  第一次再審請求

昭和三四年三月二〇日、茂子は、弁護士津田騰三を代理人として高松高等裁判所に対し、刑訴法四三五条六号所定の事由があるとして再審請求をしたが、同裁判所は、同年一一月五日付で、委任による再審請求はできない、また右事由に基づく再審請求は第一審の有罪判決に対してなすべきであるから本件請求は不適法としてこれを棄却し、これに対する異議申立も昭和三六年八月二九日付で棄却された。

五  第二次再審請求

(一)昭和三四年一一月九日、茂子は、徳島地方裁判所に対し、刑訴法四三五条二号、六号所定の事由があるとして再審請求をした。その理由の要旨は次のとおりである。

1 西野は、昭和三三年一〇月一二日徳島地方法務局安友人権擁護課長に対し、第一、二審における証言は偽証である旨告白し、同年一一月ころ徳島東警察署に自首し、同月一四日「三枝事件につき私の見た事」と題する手記を発表し、茂子に頼まれて電話線、電灯線を切断した事実はないこと及び茂子に命ぜられて刺身包丁を投棄した事実はないことを明らかにし、また茂子からの名誉毀損に基づく謝罪広告請求事件において同年一二月認諾し、さらに昭和三四年五月ころ自殺を計画して遺言書をしたためその中で偽証である旨力説している

2 阿部守良は、昭和三三年八月一三日法務省人権擁護局調査課長に対し、第一、二の証言は偽証である旨告白し、別に昭和三二年一〇月三〇日付の手記を発表し、茂子に匕首を渡した事実はないことを明らかにし、さらに昭和三三年一一月ころ偽証を自首した

3 石川幸男、阿部幸市も右調査課長に対し、それぞれ西野又は阿部から匕首や電灯線切断の件を聞いてはいない旨申し出た

4 昭和三四年二月五日衆議院法務委員会において法務省人権擁護局長は、調査の結果西野、阿部らの供述内容が確定判決において採用した供述と異なることを答弁している

昭和三四年一〇月二四日日弁連人権大会において本件における徳島地検の西野、阿部に対する取調方法には人権侵犯の事実があるとして、両名の供述、証言は任意性に欠けるところがあり措信するに足りない旨の表明がなされた

5 茂子は昭和三三年一〇月二八日高松高検に対し西野、阿部両名を偽証罪により告訴したが、徳島地検は昭和三四年五月九日不起訴処分をしたため、徳島検察審査会に審査の申立をした結果、同審査会は同年一〇月二一日起訴相当の議決をした

(二)徳島地方裁判所は、右請求に対し、西野、阿部の偽証告白は刑訴法四三五条二号にあたらず、又同条六号の証拠の明白性の要件を具備しないとして、請求を棄却した(昭和三五年一二月九日付決定。)

右決定に対する即時抗告に対し、高松高等裁判所は、請求人の主張は刑訴法四三五条二号にあたらず、又同条六号の証拠の新規性の要件を欠くとして、抗告を棄却した(昭和三六年八月二九日付決定)。

右決定に対する特別抗告に対し、最高裁判所は抗告を棄却した(昭和三七年六月六日付決定)。

六  第三次再審請求

(一) 昭和三七年一〇月二三日茂子は徳島地方裁判所に対し、刑訴法四三五条二号、六号所定の事由があるとして、再審請求をした。その理由の要旨は、第二次再審請求における前記申立理由1、2、3、6のほか次のとおりである。

1 昭和三三年五月一〇日松山光徳が亀三郎殺害の件で自首し、同月三〇日茂子は右松山を殺人罪で告発した

2 昭和三六年二月一三日茂子は徳島地検に対し、第二次再審請求における西野、阿部の証言を偽証罪として両名を告発し、これに対し同庁は同年一一月二八日付で両名を不起訴(起訴猶予)処分にした。昭和三七年六月茂子は徳島検察審査会に審査の申立をなし、その席上西野、阿部は第一、二審の証言が虚偽である旨述べ、同審査会は同年一一月二四日起訴相当の議決をした

3 昭和三七年一一月二六日西野、阿部は週刊文春において偽証である旨公表した

(二) 徳島地方裁判所は、右請求に対し、主張する事由は刑訴法四三五条二号にあたらない、第二次再審請求における主張と同一のものは同法四四七条二項により不適法である、その余の事由のうち阿部、西野の偽証告白の点は証拠の新規性に欠け、その他の点は同法四三五条六号にあたらないとして、請求を棄却した(昭和三八年三月九日付決定)。

右決定に対する即時抗告に対し、高松高等裁判所はほぼ同様の理由により抗告を棄却した(昭和三八年一二月二四日付決定)。

右決定に対する特別抗告に対し、最高裁は抗告を棄却した(昭和三九年九月二九日付決定)。

七  第四次再審請求

(一) 昭和四三年一〇月一四日茂子は徳島地方裁判所に対し刑訴法四三五条六号所定の事由があるとして再審請求をした。その理由とするところは次のとおりである。

1 茂子が仮出獄の後昭和四二年二月二日大阪市の高砂旅館において西野、阿部と会見した際、右両名は第一、二審の証言が偽証であることを認め陳謝した

2 東邦大学教授上野正吉の鑑定によれば、亀三郎の死体にみられる創傷は左利きの者によつて与えられたものであり、又茂子の左季肋創傷も加害者が逃走する際茂子を追い越す際左手に持つていた刃物で与えたものであることが認められ、右利きの茂子が犯人でないことが明らかとなつた

(二) 徳島地方裁判所は、右請求に対し、主張する事由はいずれも刑訴法四三五条六号の明らかな証拠とはいえないとして、請求を棄却した(昭和四五年七月二〇日付決定)。

右決定に対する即持抗告に対し、高松高等裁判所は、同様の理由で抗告を棄却した(昭和四八年五月一一日付決定)。

右決定に対する特別抗告に対し、最高裁は抗告を棄却した(昭和四八年九月一八日付決定)。

八  第五次再審請求

昭和五三年一月三一日茂子は徳島地方裁判所に対し、再審請求をしたが、昭和五四年一一月一五日死亡したため、右手続は終了した。

九  第六次再審請求(本件)

昭和五四年一一月八日茂子の弟姉妹である本件請求人四名は、茂子が病気重篤のため心神喪失の状態にあるとして刑訴法四三五条一項四号に基づき再審請求をした。その理由とするところは次のとおりである。

1伊東三四作成の鑑定書等によれば、本件現場の四畳半の間をほぼ等条件で復元し精密照度計で室内の照度を測定したところ-410ルクス程度の照度水準であり、同一照度を実験室で再現して認知実験をしても対象人物の識別はもとより認知すらできないことが証明された。これにより西野、阿部の第一、二審における証言にみられる茂子夫婦がもみあつていた旨の目撃供述が誤りであることが明らかとなつた。

2小林宏志作成の鑑定書(昭和五二年一〇月六日付)、助川義寛作成の鑑定書(昭和五三年一〇月一二日付、昭和五四年九月三日付)等によれば、亀三郎の創傷と茂子の自白内容は符合しない点が多い、現場の血痕の状況から茂子らの行動を推定した和田福田の見解は誤りである、西側壁面ポスター付近の飛沫血痕は立位で頸部甲状腺動脈が切断された際の飛沫と考えられることが明らかにされ、本件の兇器は事件直後徳島市警が推定したように本件匕首である蓋然性が高くなつた

3富澤一行作成の鑑定書(昭和五四年一〇月二日付)、同補足説明書(昭和五四年一〇月三一日付)によれば、昭和二八年一一月五日付実況見分調書添付写真No.9に写つている弧状の線は切断された電灯線を接続している電線であり、写真撮影より前に証拠物として六センチメートル及び一〇センチメートルの線(刑第三号証の一、二)が切りとり領置されており、従つて領置前すでに切断個所の修理が行われていることが明らかになつた。このことは、警察官が屋根に上つて発見したのが接続後の状態であるのに、接続線が存在しなかつたかのごとく述べている櫛淵泰次らの証言が誤つていること、修理に上つたのに切断のため上つたとの西野の証言が誤りであることを示している。

4新たに提出された三枝方の女中の供述調書等によれば、事件当時八百屋町の三枝方には押収された二本の刺身包丁以外に刺身包丁が存在しないことが明らかであり、兇器とされた刺身包丁を西野が投棄した旨の証言は誤りである

5新たに提出された捜査官の検察官調書等によれば、現場の敷布上に土ないし泥の付着したゴム靴かゴム草履の裏の跡が二個と血液の付着した靴跡一個が存在したことが明らかであり、犯人が外部から侵入した者であることを示している

6このほか、外部犯人の侵入逃走経路、侵入犯人の目撃等

一〇  原審の判断(昭和五五年一二月一三日付決定)

原審は請求人の前記申立理由をすべて是認し、新旧証拠の総合証価を経た結果、茂子が無実であることの明らかな証拠が新たに存在するに至つたというに充分であるとして、刑訴法四三五条六号、四四八条一項に則り再審を開始する旨決定した。

第二  当裁判所の判断

一件記録を精査し、当審における事実取調べの結果を加えて原決定の当否を検討したところ、原決定は、その理由の一部に当審の判断と異なる点はあるが、結論は妥当であつて、結局これを維持すべきものと判断した。その理由を検察官の所論に対応させて述べれば次のとおりである。

(総論)

一本件については、本請求前既に四回にわたる再審請求がなされ、そのいずれも棄却されているが、これら再審請求理由は本請求と同様に西野清、阿部守良両名の公判における証言が虚偽であるということを中心とするものであるから、本請求は同一の理由による請求を禁止した刑訴法四四七条二項に違反しているのに、これを棄却しなかつた原決定は不当であるとの点について(即時抗告理由補充書第一の一)

刑訴法四四七条二項は再審請求棄却決定の内容的確定力の効果について規定したもので、その確定力の及ぶ範囲も、既になされた再審請求棄却決定の後訴に対する判断の基準性という観点から考えるべきものであり、それは再審理由として主張された事実に関し、その判断の基礎となつた証拠資料に基づく裁判所の具体的判断内容を確定する限度で生じる効果に過ぎない。従つて、同じ事実、証拠をもつてする限り、後の再審請求に対する判断において裁判所がこれと異なる判断をすることは許されないが、後の再審請求において前の請求で主張したと同じ、例えば、同一証人の証言が虚偽であるとの主張がなされても、これを根拠づける証拠、事実が前の再審請求棄却決定の判断の資料とならなかつた新たなものを含む場合には、前の再審請求棄却決定の内容的確定力はこれに及ばないものといわなければならない。

これを本件についてみると、本件再審請求理由として主張するところは、前記のとおり新たな証拠を伴つているから、右各棄却決定の内容的確定力はこれに及ばず、従つて、本件再審請求理由は刑訴法四四七条二項にいう「同一の理由」に当らない。

なお、原決定が、本請求と第一次乃至第四次請求との関連と題し、以上と同旨の判断を示したのち、第一、本請求において従来判断の資料とならなかつた三枝亀三郎殺害事件に関する証拠資料が殆んど全部提出されたこと、第二、従来の再審請求の審理において西野、阿部の証言の真否についての全面的分析がなされていないこと、第三、第一・二審の右両名の証言は動揺が多く、第二審判決は両名の捜査段階における供述の矛盾動揺について鋭い疑問を投げかけつつもこれを採用したが、両名は判決確定後一年を経ずして公的機関に対し偽証告白あるいは偽証の自首をしたこと、第四、第四次再審請求以後、再審請求に対する審理と判断方法につき最高裁判所が従来の判例と異なる新しい考え方を示したことを挙げ、本件請求理由のうち右両名の偽証を理由とする部分も刑訴法四四七条二項に抵触しないとする部分は、第一の点を除き当裁判所の前記見解からは無用のことであるが、西野、阿部両名の偽証を本請求において、その供述経過等からでも分析判断しうることを強調したものと解される。

二原決定がどの証拠が刑訴法四三五条六号所定の新規性及び明白性を具備するものであるかにつき、個別に明示的に判断を示していないのは理由不備であるとの点について(即時抗告理由補充書第一の二)

原決定は前記申立理由をすべて是認し、新旧全証拠の総合評価を経た結果、茂子が無実であることの明らかな証拠が存在するに至つたというに充分であるとしており、かつ、各論点ごとに新証拠を示しつつ判断しているから、こと改めて新証拠の個々を列挙しなくても違法でなく、明白性は、新旧証拠の総合評価により判断されるものであるから、個々の証拠が明白性を有するものとして列挙する必要もない。

1  証拠の新規性について

原決定が、証拠が「新た」であるか否かは原判決の時点を基礎にするわけであるから、本件について既に第一次乃至第四次請求審の審理に至るまでに集積された証拠資料は、この新規性を一応充足しているとしたのは誤りであるとの点について

原決定は証拠の新規性についてと題し右のとおり説示しているが、それにつづいて「同じ理由と同じ証拠資料をもつてする限り再度の再審請求は前の棄却決定の内容的確定力によつて許されないとしても、一部において従前の請求と重複するが別個の理由と証拠資料を伴つて主張されるときは、右内容的確定力はこれに及ばないと解する場合に新たな請求理由の判断に際し、従前の請求審において取調べられた関係証拠は、それが証拠価値の存するものである限り当請求審においても判断資料となしうるものと解される」としているのであり、再審請求棄却決定の確定力を破るための断証拠の問題と原判決の確定力を破るための新証拠の問題を区別し、後者のためには原判決後に発見された新証拠のすべてを刑訴法四三五条六号にいう新たに発見された証拠と解すべきだとするものであつて、このことは、原決定が述べている請求が部分的に数次に行われた場合と周到なる準備のうえ一時になされた場合との権衡論からみて正当である。

2  証拠の明白性について

原決定は、証拠の明白性の意義及び明白性の有無の判断方法について①昭和五〇年五月二〇日及び②昭和五一年一〇月一二日の最高裁判所決定に従つているごとくに見えるが、実際は、再審理由の有無の判断に際し、原裁判所の立場を離れ、既存の積極、消極証拠に新証拠を加えて全く独自の心証形成を行つているとの点について

最高裁判所の右各決定は、個別評価説や心証引継説ではなく総合評価説=再評価説をとつたものであるが、旧証拠の再評価といつても限度がある、という趣旨に理解されている。

原決定は新規性のある証拠に証拠価値を認め、これに基づき新旧証拠の総合判断をなしたものである。ところで、右の決定がいう「もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきである」とは、当の証拠を含む全証拠(積極証拠及び消極証拠)を、有罪無罪を決するいわばなまの事件の審理におけると同様に評価判断すべきことをいうものと解される。けだし、最初から当の証拠が提出されていれば確定判決においてなされたような事実認定には到達しなかつたというケースにおいて、当の証拠が出遅れたために正当に評価されず、いわば不利な地位を与えられると解すべきいわれはない。そして新証拠を加えて旧証拠を再吟味する場合、旧証拠を再評価してそこからどのような心証形成に到達するかについて洗い直しをすることは、新証拠を加えてこれと比照検討する場合にどの程度たえられるものかとみるうえで必要なことである。ことに内容の異なる供述のいずれが真実かを判定するようなときこの作業はとりわけ必要であろう。

②の決定は、「再審請求を受けた裁判所が、特段の事情もないのに、みだりに判決裁判所の心証形成に介入することを是とするものでもないことは勿論である。」と判示しながら、訴訟記録のみに基づく書面審理で独自の心証を形成し、「確定判決が挙示する証拠だけでは申立人を強盗殺人の犯人と断定することは早計に失するといわざるをえない。」という認識に到達しているところからみても特段の事情があれば独自の心証形成も許されるものであり、右特段の事情に原決定がいう確定判決の証拠構造の脆弱性が含まれるものと解してよいものと思われる。そして本件につき右特段の事情があるとした原決定も肯認しうるところであるから、原決定が採用した証拠の明白性の意義及び明白性の有無の判断方法を違法とすることはできない。ただその判断内容、結果の当否は以下各論においてみるところである。

(各論)

一  西野清、阿部守良の第一、二審における証言の信憑性について

(即時抗告理由補充書第二の一)

茂子と本件犯行を結びつける主たる証拠は、茂子の自白調書(昭和二九年八月二六日付、同二七日付検察官に対する各供述調書)のほか、西野、阿部の第一、二審における各証言、すなわち、「事件当時西野、阿部は四畳半の間で茂子夫婦らしき者が格闘しているのを見た」旨の西野、阿部の証言、「犯行直後西野は茂子に頼まれ電話線、電灯線を切断した」旨の西野の証言、「犯行直後西野は茂子に頼まれ刺身包丁を両国橋から川へ投げ捨てた」旨の西野の証言、「事件直後新館風呂場焚口付近の壁に立てかけてあつた匕首は阿部が事件前茂子に頼まれ篠原組から受取つてきて茂子に渡したものである」旨の阿部の証言、「電話線切断に使つたのは右の匕首である」旨の西野の証言及び右と同趣旨のことを述べる昭和二九年七月以降に取調べられた西野、阿部の検察官に対する各供述調書を挙げることができ、このほかの多くの証拠は犯行の客観的部分や犯行の動機、外部からの侵入者の有無、西野らの証言の信憑性等に関するものであつて、茂子が犯人であることを直接証するものではない。そして、茂子の前記自白調書は内容が比較的簡略であつて、そこには犯人しか知り得ないいわゆる秘密の暴露にあたるものは見当らず、結局はその真実性の有無の判断も西野、阿部の証言の信用性に大きく依存していると考えられる。このような本件証拠の構造上茂子が犯人であるか否かを決するのは一に西野、阿部の証言等の信用性如何にかかつているといつてよい。そして、西野、阿部の各証言の信用性の有無を判断するにあたつては、客観的な証拠による裏付けを有するか否かが最も重視さるべきであり、本件に即していえば後述するように電話線、電灯線の切断の時期等の確定が証言の信用性の有無の判断を左右する重要な要素と考えられるが、これらの点は今回提出された新証拠の評価と関連するので項を改めて触れることとし、ここでは両名の証言の変遷の過程を全般的に考察してその信用性を検討することとする。

(一)  第一、二審における証言

西野は、第一審において反対尋問に対するもの二回を含めて合計五回証言し、検証時に一回指示し、第二審においては合計三回証言し、検証時に一回指示しており、阿部は、第一審において反対尋問に対するもの一回を含めて合計四回証言し、検証時に一回指示し、第二審においては二回証言している。第二審判決はこれらの証言が信用できるゆえんを他の証拠との検討を通じて詳細に判示しており、第四次再審請求に対する抗告決定においても同様のことが述べられている。しかしながら、今回当裁判所においてこれらの証言を検討したところ、両名の証言内容は第一、二審を通じ終始一貫しているとみられ、詳細な反対尋問にも格別破綻を示さず、一応維持されているように見うけられるが、これらの証言は客観的な証拠によつて裏付けられているものではなく、多分に推測や想像によつて組みたてられている疑いがある。この点に関し、原決定は、「両名の証言は主尋問に対しては比較的淀みなく答えているものの、裁判所や弁護人の尋問に対しては記憶にない、判然しませんと答えたり、黙して答えないことがしばしばであつて奇異であり、反対尋問による厳密な吟味を経た証言であるとは一概に言い切ることはできない」とか、「証言の基本的部分に動揺があることが明らかである」、「自らの体験に基づくものでない事実を検察官に強制され、あるいは誘導された結果これに迎合して証言しているものでないかと疑うに足りる諸徴表を偽証告白をまつまでもなく既に備えていた」などと述べているが、「強制された」という点を除き、十分首肯しうるところである。両名は後日偽証告白において、第一、二審の証言は検察官の厳しい取調べや追及に迎合して述べた供述に沿うものであることを明らかにしている。

(二)  捜査段階における供述

第一審においては西野、阿部は証人として証言し、同人らの捜査段階における供述調書は第二審において弁護人の同意のうえ取調べがなされた。両名は事件当時一六歳の少年であるが、事件直後参考人として取調べを受け昭和二八年一一月中にそれぞれ三通供述調書が作成された。その後内部犯人説に基づき捜査が進められ、西野、阿部は再び取調べを受けるに至り、西野は昭和二九年七月二一日電話線、電灯線を切断した事実で電気及びガスに関する臨時措置に関する法律違反及び有線電気通信法違反罪により逮捕され、引き続き同年八月一一日まで勾留され、次いで家庭裁判所へ事件送致されるとともに観護措置決定を受け、同年九月三日保護観察処分に付されて釈放された。他方、阿部は同年八月一一日匕首一振を所持した事実で銃砲刀剣類等所持取締法違反罪により逮捕され、同月三一日まで勾留されたうえ同年九月一日観護措置を受け、同月六日不処分決定を受けて釈放された(なお、この間茂子は同年九月二日起訴された。)。この段階において作成された調書は、西野については同年七月五日以降同年九月二四日までの間に検察官、検察事務官によるもの合計二八通、刑訴法二二七条に基づく証人尋問調書二通が存し、阿部については同年七月五日以降同年九月一〇日までの間に検察官、検察事務官によるもの合計二五通、刑訴法二二七条に基づく証人尋問調書三通が存する。このように西野、阿部は数多くの調書をとられているが、両名とも調書の内容は一貫しているものではなく変遷を極めている。例えば、各調書の内容は原決定が詳細に引用しているとおりであり、西野についてみれば、事件直後の調書では茂子が犯人であることをうかがわせる供述はなく、七か月を経て再び取調べを受けるに至つた七月五日付、六日付の各調書では具体的なことには触れずに茂子があやしいとの印象が述べられ、連日取調べをうけ、逮捕直前の七月二一日付調書においてはじめて電灯線、電話線の切断の依頼とその実行が述べられ、即日逮捕された。ところが逮捕後電灯線の切新は認めるも電話線の切断を否認したり、再び両方の切断を認めたり、また電話線の切断を否認し、あるいは電話線の切断を阿部の所為のごとく述べ、八月三日付以降の調書で両方の切断を認める供述を維持している。切断の方法についても、当初ニツパーかペンチと供述していたのが電話線はニツパー、電灯線はペンチと供述(七月二四日付)、次いで電話線は匕首、電灯線はペンチと供述(七月二六日付)するに至つた(なお、九月三日付では電灯線をナイフで切込みを入れたうえペンチで切断と述べる。)。また、四畳半の間の目撃事実を八月一〇日付調書で、刺身包丁投棄の事実を八月一八日付調書ではじめて述べている。阿部の調書については、内容的には西野の調書と比べれば少ないが、八月一〇日付調書で目撃事実を、八月二一日付調書で匕首入手の事実をはじめて述べ、八月二二日付調書で匕首の入手先を篠原方と変えている。等々。

取調当時西野は一七歳、阿部は一六歳の少年であり、長期にわたつて身柄拘束を受けた中で調書の大半が作成されていること、その供述の形成あるいは変遷の過程が通常でないことを考えると、調書の内容の信憑性については慎重な検討を必要とする。この点第二審判決は両名の右供述の信憑性に詳細な検討を加え、供述における動揺、変化、矛盾の原因及びそれから生ずる疑問に答え、「西野の起訴前の各調書には以上のように矛盾動揺はありながらこれを総合すれば結局において先に引いた公判の供述と合致するものと断定してよいものであり、さきに挙げた各種証拠とも総合すれば起訴前後の供述を通観して受ける心証は幾度かの躊躇逡巡動揺の後徐々に真実を吐露するに至つたものであるとの真実感であつて前記のような矛盾動揺の存することも右心証を動かすものではない。」「これらの矛盾動揺の存する所以については当時の西野清の年令、従来の捜査方向が一変して西野自身数ヶ月秘匿してきた電灯線、電話線切断等の事実が追及され、しかも身柄の勾束を受けるに至つたこと、さらには同人の所為自体の重大性に鑑み以上のような年少、未経験の同人にとつて事態の発展進行が甚だしい不安焦慮を与えたことを考慮しなければならない。かかる事情を考慮におけば、電話線切断の事実は一旦は自供したが罪責に対するおそれから再度に亘り否定し、或は同僚である阿部の上にこれをかぶせようとしたことも強ち理解し得ない態度、供述ではない。その際電灯線切断について自供を翻さなかつたのは、一旦前述配電盤の閉鎖により点灯した電灯が自己の行為で消灯するに至つていること、隣人新開鶴吉に屋上に上ろうとして発見されていること、友人石川幸男に電線切断の話をしていること、等の状況事実から否認し得ないと考えたのに因ると推定することができる。又これより以上本件に重要な関連を持つと認められる刺身包丁の投棄の事実についても、同様の事情から最後まで口外をためらつたものと認められる。調書中西野自身これが供述をためらつた事由を述べている点はそのままこれを肯定し得るところである。事件当日の朝被告人の姿を見かけた状況もその見聞がそのまま一度に述べられていないことも不安躊躇の結果と解することができる。さらに又右のような躊躇逡巡の末ようやく刺身包丁投棄、電話線等の切断の事実を供述しはじめた以上、事案の性質上取調官の質問は詳細に亘つて行われたところであろうし又供述者である西野の側から見れば一旦供述しはじめた重要事実を係官に虚偽と解されるときは事犯の容疑自体がかえつて自己の上にかかつてくるおそれを感じるであろうことも又見易いところである。前記細部にわたつてむしろ創作的印象さえ受ける西野の供述、あるいは自己の行動をなるべく合理的に説明せんとする潤色とも見られる点はかような事案の性質、供述者の年令、立場から生じたものであると認められる。事件発展の時間的順序のある程度の先後はことに本件のごとき複雑な事案なることを考慮すれば特に年少の供述者としてむしろ自然の矛盾と認め得る。」と述べ、阿部に関しても、「全般を通じ阿部守良の調書には西野清のそれに比し矛盾動揺は少い。しかし後記のような矛盾、動揺の存することは否定し得ないところであり、これらの因つて来る所以についても亦先に西野清について述べたところと同様の事情が阿部の場合にも当然考慮されねばならないところである。さすれば同人が被告人を犯人なりと迄述べながら(八月一一日付調書)上記のように八月二一日付調書に至るまで匕首入手の事実を秘し、しかも同調書ではなおその入手先、入手場所につき架空の事実を述べ、翌日これを訂正しているごとき矛盾も、同人自身同調書でこの点につき弁解しているところをその後の供述とも照し肯認し得るところである。」と述べる。第四次再審請求における抗告審決定も同様の心証を述べ右判決を支持した。これに対し、原決定は、「西野、阿部はいずれも少年であつたが、西野は昭和二九年七月二六日から九月三日までの四五日間、阿部は八月一一日から九月六日までの二七日間、夫々身柄拘束の上取調をうけた。両者の身柄拘束の根拠となつた被疑事実の質、両名の少年としての非行性の度合を考慮すると、極めて過酷な拘束期間であると考えられるが、この身柄拘束の状態下において、前記の供述調書が次々と作成された」「特に阿部の逮捕、勾留事実は本件犯行のあつた朝、阿部が発見した匕首を所持していたというものである。第四次再審請求の抗告審である高松高裁もその理由中(昭和四八年五月一一日付決定)において『阿部に対する逮捕勾留は全く不当である』と指摘している」「西野と阿部の供述は時期的にも内容的にも相互に符合しつつ補完し合う関係に立つており別々の人間が全く同じ時期に同じ内容の事柄を思い出すことが通常あり得ない以上このことは両名に対する捜査官側の強い誘導或いは強制を窺わせる」、「茂子夫婦の格闘目撃、刺身包丁の投棄、匕首の入手の各事実をどうして後の段階まで隠していたのか極めて疑問」、「供述内容の変転動揺が極めて著しい」、「西野の九月三日付調書で電灯線の切断方法につき従前と異なりナイフとペンチで切断した旨述べているのは大久保柔彦作成の九月一一日付鑑定書(八月三〇日鑑定終了)の結果に符合させるため捜査官によつて誘導、強制された結果としか考えられない」などと述べ、結論として西野、阿部の供述は過酷な長期の身柄拘束と厳しい取調べに疲労し、畏怖し、迎合したものであるというのである。両名の供述が虚偽であるとすると、その原因は原決定指摘の右理由に基づくものと考えざるを得ない。ところで、西野が電話線、電灯線切断の事実をはじめて述べたのは再度の取調べがなされて間がない七月二一日付調書(これは七月五日以降三通目の調書である)であるが、この時にはまだ逮捕されておらず参考人としての立場で取調べを受けていたものであるとはいえ、逮捕直前であり前日に引続き厳しい取調べを受けていたものである。又阿部が茂子夫婦の組み合つている姿を目撃したと述べはじめたのも逮捕の前日である八月一〇日付調書であることや、西野の中学校時代の教師である喜田理の証言によれば、同人が西野の勾留中面会に行き取調べには正直に述べよというと西野は正直に述べると答て、また西野が鑑別所から出る時迎えに行き自己の下宿へ同道して尋ねた際西野は取調べには正直に述べたと答えさらに事件の模様について電話線、電灯線を切断したこと刺身包丁を投棄したことを述べていたことがあつたとしても、これらの事実から厳しい取調べや追及、あるいは過酷な長期の身柄拘束下の厳しい取調べを否定することにはならない。原決定の説示する理由は相当であり、これが認められる以上、西野、阿部の供述は過酷な長期の身柄拘束と厳しい取調べに屈し、迎合したものであるといわざるをえない。なお原決定が説示する理由のうち西野の九月三日付調書の電灯線切断の方法についての供述の変化の点も、それまではベンチで切断していたというのをナイフで切りこみを入れてペンチで折り曲げたというもので、ペンチを用いていた点では同じであるにしても、切断の態様は異なるものであり、不可解な変化といわざるをえない。又捜査官側ではすでに昭和二八年一二月四日付佐尾山明作成の鑑定書により「電話線及電灯線は何れも切断部は切断用具によるものと考えられない側面部に刃物によると思はれる傷を認める」との鑑定結果を得ており、さらに大久保鑑定の結果についても昭和二九年七月二八日付東京地検次席検事から徳島地検次席検事宛電信により「(大久保技官からの聴取によれば)資料たる電線類の指示切断面はナイフで切込んだ上折曲げて切断したものと思はれる」との回答を得ていたとしても、鑑定結果の詳細を知つたのは鑑定終了後と思われるから、原決定の理由が前提を欠いているとはいえない。

してみると、西野、阿部の捜査段階における供述の信用性に関する原決定の理由は首肯することができる。

(三)  偽証告白について

昭和三三年五月一二日茂子は上告を取下げ、判決は確定するに至つたが、阿部守良は同年七月茂子の義理の甥渡辺倍夫らに対し、第一、二審の証言が偽証である旨はじめて告白し、同様の趣旨のことを記載した昭和三二年一〇月三〇日付の手記を交付し、そのころ、阿部や西野から事件について聞いた旨証言していた阿部幸市、石川幸男も右証言が偽証であつたと述べた。阿部はその後の徳島地方法務局の調査や徳島地検の取調べ、徳島検察審査会の聴取、再審請求事件の証人尋問においても基本的には偽証告白を一貫して維持している。一方西野清は、昭和三三年八月末大阪から徳島へ帰り、阿部が偽証告白をしているのを知つたが、徳島地方法務局の調査に対し、当初第一、二審の証言は正しいとして偽証であることは認めなかつた(昭和三三年九月一日付、同月八日付、同月一五日付調書)が、一〇月九日の調査において阿部同様偽証である旨告白するに至り、偽証の経緯を記載した手記(昭和三四年二月一日付)をも作成した。しかし、第一次偽証被疑事件の被疑者として検察官の取調べを受けるやたちまち偽証告白を撤回した(昭和三四年四月八日付、同月一三日付、五月六日付検察官調書)。ところが昭和三四年五月九日不起訴処分(嫌疑なし)を受けたのち、日弁連人権擁護委員会の聴取で再び偽証告白し、偽証告白を記載した遺書を書き、検察審査会の調査においても偽証である旨述べ、昭和三五年七月八日の第二次再審請求事件においても同様の証言をした。その後第二次偽証被疑事件の被疑者として取調べを受けるや再び偽証告白を撤回した(昭和三六年一一月一〇日付、昭和三八年二月一日付、同月二日付検察官調書)が、昭和四二年二月二日の高砂旅館における茂子との対面で偽証であることを認め、第四次、第五次再審請求事件の証人尋問においても偽証告白を維持している。

このように西野、阿部は第一、二審において最後の証言をしてから約一年経過したのち偽証の告白をしているのであるが、阿部の偽証告白がその後ほぼ一貫して維持されているのと対比して西野のそれは三転、四転しているのが特徴である。西野は昭和四二年二月の高砂旅館における茂子との対面以来現在に至るまで偽証告白を維持しているが、昭和三三年夏徳島へ帰り、同年九月一日、八日、一五日の徳島地方法務局人権擁護課の調査においては、関係者やマスコミが西野も阿部同様偽証告白をするのではないかと注目する中で、依然第一、二審の証言が正しいと言い張つており、とりわけ八日の調査では阿部と対決しながらやはり右主張を変えず、調査の後両名ともに記者会見に臨んだ席でも同様のことを述べていたのであり、その後の偽証告白ののち検察官の取調べを受けた際には、偽りの偽証告白をした理由について当時の西野をめぐる周囲の状況、内心の苦悩の点にまで触れて詳細に述べていることや偽証告白を維持していた再審請求審における証人尋問において、なぜ偽証告白を撤回したのか納得し得る説明をしていないことなど西野の偽証告白にはたやすく信用し難い事情も存するのである(なお、偽証告白中真実として述べる事実の中で電灯線修理方法について必らずしも一貫していない点があることは後述のとおり。)が、その後一貫して偽証告白を維持していること、捜査段階における供述の経過、偽証の理由などを併せ考えると、偽証告白の信用性を否定するのは相当でない。また阿部についてみても、はじめて渡辺倍夫に偽証告白をした動機が、右渡辺から真犯人という松山光徳の写真をみせられ証言が偽証ではないかといわれて心が動いたということや、その時渡辺に交付した手記の作成日付を昭和三二年一〇月三〇日付として偽つて遡らせ、法務局の調査ではその事実を秘し、昭和三四年四月一四日の検察官の取調べにおいて追及されはじめてそれを認めるなど、阿部の偽証告白の経緯にはその信用性にいささか疑念を挾むべき事情も存するが、一貫して偽証告白を維持していること、捜査段階における供述の経過、偽証の理由などを併せ考えると、同人の偽証告白の信用性を肯定するのが相当である。尤も西野、阿部の偽証告白は、第四次までの再審請求において、その信用性を否定され、刑訴法四三五条六号の明白な証拠とは認められなかつたので今これだけを取り上げて明白な証拠となすことは刑訴法四四七条二項に照らし許されず、結局これらの偽証告白は他の新証拠の明白性を検討するにあたつての資料として用いられることになる。

なお、今次(第五次、第六次)請求審における西野、阿部の証言について一言しておくと、同人らはいずれもこれまでの偽証告白の内容と概ね同一の供述をしているものと思われるが、両名ともその供述には記憶の不鮮明な部分がかなりみられ、事実を述べている部分でも長い質問に対して簡単に答えている場合が多く、問に対して積極的に具体的に述べるものは少なく、このことは長い年月の経過を考えればむしろ当然のことではあるが、従前の供述に比して特に信用性が高いとして注目すべき供述内容というのは見当らない。

二 西野清、阿部守良の格闘目撃供述について(同補充書第二の二)

原決定は、第一、二審判決が本件犯行時四畳半の間で茂子と亀三郎の格闘が行なわれたと認定しその証拠として信用性を肯定した西野、阿部の証言中の格闘目撃に関する部分について、右の証言は第一審における検証の結果や武内一孝、森本恒男両巡査の証言によつても容易に措信し難い要素を含むとし、更に西野、阿部の捜査段階における供述はその形成過程が不自然で、しかも捜査段階と公判段階の供述の相違が著しく、実際に体験した者の供述としてみるに看過し難い重大な矛盾動揺を包蔵するとし、新証拠である伊東三四鑑定等によれば西野、阿部両名の目撃供述は視知覚心理上容認し難いことが明らかになつたと判示して、右両名が原審において証言するように第一、二審証言が虚偽であると結論している。これに対し、検察官の所論は、伊東鑑定等の結果の信頼性に相当の疑問があることは市川宏鑑定等により明らかである、第一審の検証は本件犯行時と条件が異なる、武内、森本証言は西野、阿部の目撃証言の信用性を疑う理由とならない、西野、阿部の供述に関する原決定の評価は独断偏見である、西野、阿部の目撃供述の信用性を否定しながら同条件下にある茂子や佳子の外部犯人目撃供述を肯定したのは採証法則に反している、として原決定が西野、阿部の格闘目撃供述を虚偽と断定した根拠はことごとく崩壊しているというのである。そこで以下に原決定の当否について検討する。

(一)  旧証拠について

第一、二審において西野、阿部が本件犯行現場である四畳半の間で目撃したとして証言する内容を摘記すれば次のとおりである。

1 西野

(第一審第二回公判)

何が見えたか

四畳半の間の中に向こうからこちらを向いて一人が立ちそれに向かい合つてもう一人が立つている人間の恰好が見えました

その人の恰好ははつきり見えたか

はつきりとは見えませんでした

その人の服装はどうであつたか

はつきり判りませんでした

服装は黒かつたか白かつたか

白かつたように思いますがはつきりしません

向かい合つて立つている二人の中どちらが背が高かつたか

こちらを向いている人の方が高かつたと思います

その人は方角にするとどちらを向いていたのか

南西の方に向いていました

その人が立つていたのは四畳半の間のどの辺か

恰度真中辺であります

その人に向き合つて立つていた人の背はどうか

向かい合つている人より大分低いように思いました

背の高い人は誰だと思つたか

大将だと思いました

何故大将だと思つたか

背恰好も似ていたしこんな所に他所の人が入つて来る筈はないと思いました

その人の顔形は見えたか

はつきり見えませんでした

その人に向かい合つている人は誰だと思つたか

奥さんだと思いました

何故そう思つたか

背恰好から見てそう思いました

その人の頭髪が見えたか

充分見えませんでした

証人等は其所で何分位立つて見ていたか

約二分間位です

その間二人は向かい合つて立つていただけか

そうではなく組み合つて揉み合つていました そして動いて便所の陰に入り見えなくなりました

(第一審検証時における指示説明)

事件の当時は現在よりももう少し明るかつたと思う 室内の人は二人というのははつきり判らなかつたが二人だと思つた

(第一審第一一回公判)

何が見えたか

その時には白いものが四畳半の間の中にある位しか見えませんでした

(略)

四畳半の中に白いものが見えてからどうしたか

私にはその白いものが不断大将や奥さんが着ている寝巻のように思えました

何故そう思つたのか

私はそう思つたのです

その白いものは動いていたか

動いていました

証人はその白いものを人だと思つたのか

人だと思いました

何人だと思つたか

奥さんと大将の二人だと思いました

二人の人影がはつきり見えたのか

はつきりは見えません しかし四畳半には奥さんと大将が寝ているので私はその白いものを奥さんと大将だと思つたのです

(略)

証人の見た白いものが二人だという区別がはつきりついたか

白いものが二つ離れておりました証人は前にその白いものは向き合つており一方は高く一方は低かつたと述べているが向かい合つていたとすれば証人の見た位置からでは二つの白いものはひつついて見え高いとか低いという区別はつかないのではないか

白いものが二つ斜めに離れて向かい合つていたのを左の方から私が見たと記憶します

背が高いとか低いという事が見えたか高いとか低いという事までははつきりしませんでした

二つの白いものが離れた時にも高いとか低いという区別がはつきりしなかつたのか

私が見た時に二つの白いものに高い低いの差があつたようにも思いますがはつきりしません

(第一審第一二回公判)

白いものが二つだという事は何故判つたか

白いものが二つに離れており多少高低もあつたので二つという事が判りました

その白いものは前後左右に激しく動いていなかつたか

動いていました

それはゆつくり動いていたか、激しく動いていたか

一寸見ただけですからはつきり判りませんでしたが相当激しく動いていました

証人はその白いもの二つを何と思つたか

奥さんと大将だと思いました

何故そう思つたか

白く見えたものが二つとも寝巻だと思つたからです

それ以外に白いものの高さとか恰好から見て被告人と亀三郎だと考えたこではないか

白いものに高低のある事は判りましたが恰好までは判りませんでした

(略)

証人は四畳半の間で二つの白いものが激しく動いているのを見たのか

一寸の間見ただけでありますが大分あつちこつち動いていたので激しく動いていたといえると思います

あつちこつち動いていたというと相当広範囲に動いていたのか

白いものがふわふわと前後左右に動いていた程度でした

白いもの全体が動いていたのか又は白いもののある部分だけが揺れていたのか

白いもの全体が左右に動いていました

(第二審第三回公判)

どこまで見えましたか

何処までつて暗くて向こうの端までは見えませんでしたが何か白つぽい感じのものが見えました

もう少し見えたものを判然言つて下さい

私はその程度のものしか覚えていません

白つぽい感じのものは何個位ありましたか

二つぐらいあつたように思いますそれはどの辺に見えましたか

四畳半の中央辺に見えました

顔とか頭とかいつたものは見えませんでしたか

顔は見えなかつたと思います

2 阿部

(第一審第二回公判)

四畳半の間の中には人影が見えたか

私が見た時部屋の中にはこちらを向いて主人が立ちそれに対して寝巻を着ている奥さんだと思われる人が向き合つて立つていました

その外には人影はありませんでした

向き合つて立つていたのは部屋のどの辺か

部屋の真中より少し東寄りの所でした

立つている姿が全部見えたか

全部見えました

どんな着物を着ていたか

こちら側の人は白つぽいように見える寝巻を着ていました

部屋の中に立つている人の顔形が見えたか

こちら側に向いている背の高い人は顔形で主人だと思いました

それに対している人は誰だと思つたか

前の人より背が大分低く白つぽい寝巻を着ていましたが私は奥さんだと思いました

証人が見ていた位置と部屋の中で二人が立つていた位置との距離はどの位か

一間位でした

その二人はずつと立つていただけか

立つていただけではなく二人はもぢかいながら少し動いていました

(第一審検証時における指示説明)

西野と同じ

(第一審第一二回公判)

何が見えたか

白いものが二つ重なつて動いているのが見えました

その二つの白いものには高低があつたか

少し高低がありました

その二つの白いものは相当激しく動いていたか

激しいという程は動いていません

でした

(略)

二つの白いものは静かに動いていたのか

動いているのが判る程度に動いていました

(第二審第四回公判)

何か見えましたか

まあ白つぽいものが見えました

昭和二九年八月八日白井判事の問に対し亀三郎と茂子が問答しているのを見に行つたときこちら側に立つているのが奥さんであつたといつているのですがどうですか

判然覚えていません

(第二審第八回公判)

二八年一一月五日の朝実際に二人であるということは見えたのですか

見えたと思います

その二人が亀三郎と茂子だということは判りましたか

……判りません

両名の証言は以上のとおりであるが、第一、二審は右証言の信用性を基本的には肯定し、第一審判決は証拠説明として「右両証言の通り部屋内に相対峙していた白い影が見えるかどうかについての昭和二九年一二月五日早朝の検証の結果によれば同日は暗くて内部は全然見えないのであるが、徳島測侯所長よりの回答書により窺われる通り、月齢天候、日出時間等を考慮するときは、本件犯行当日の同時刻頃はより明るかつたのであつて従つて右各証言はこれを信用していいわけである。証人武内一孝の第五回公判における証言による部屋内は白黒を区別出来る程度の明るさであつたものと認められる」と判示しており、第二審判決は「室内中央部に亀三郎と覚しい背丈の者が西南に向き、これと向かい合つて被告人と覚しい背丈の者が格闘しているごとく動いているさまが暗中にうす白くぼんやりとみえ二分位してその影は同室西北隅押入れの方に移動し縁側西端の便所の陰になり見えなくなつた」旨判示している。両名の証言中には、白い影が寝巻あるいは亀三郎、茂子と思つたと述べている部分もあるが、寝巻とか人の姿まで具体的に見ていないことは証言を通じて明らかであり、両証人がこのような点にまで触れたのは、四畳半の間は茂子と亀三郎の寝室で未明の時刻であつたことから、仮に部屋内の白い影が見えたとすれば、部屋内の白い影を見て寝巻姿の二人であろうと推測して述べたものと思われる。

ところで、西野、阿部の証言は右のようなものであるが、はたして「白い影」のみならず、「背恰好」「向き」「位置」「動き」「人数」の認知が得られるものかどうかについて検討するに、第一審は昭和二九年一二月五日未明から早朝にかけて西野、阿部らの立会いのもとに現場で検証を行い、その結果によれば、午前五時一〇分より同五時一七分までの間、西野、阿部が見た時立つていたと指示する位置(A点)から四畳半の間の内部の明暗度を検するため、室内灯及び三枝方の外灯を消したのち、白ワイシャツ姿の人を部屋内に立たしめ見分したところ、A点から約3.7メートル離れた室内中央部電灯直下に人が立つた時は、室内は全く暗黒であつてその人影又は白いものを認めることができず、A点から約2.5メートル離れた廊下の内側の敷居より約一尺の位置に立つた時には白ワイシャツの白色が幻の如く暗に浮んで見えるが人影の輪郭又は顔形等を認め得ず、さらにA点から約二メートル離れた廊下の内側の敷居に立つた時には何か白いものを着ている人影を認めたが顔形までは判らないとのことであつた。原決定は、「右の検証の結果を重視する限り、西野、阿部両名の格闘目撃に関する供述は、容易には措信し難い要素を含むものとして批判的検討の対象となるべき」として、第一、二審判決が日出時刻、月齢等の相異や検証に立会つた西野、阿部が「もう少し明るかつたと思う」と述べたことを考慮して、両名の証言の信用性を肯定した点を批判する。検証時の明暗度については暗順応の問題や日出時刻が犯行時より約三〇分程度遅いことなどにかんがみると、検証時は犯行時より、やや見えにくい状況にあつたとも考えられないことはないが、検証時立会つた西野、阿部がともに犯行時の方がもう少し明るかつたと思うと述べている点は科学的根拠に乏しく、又同人が後日偽証告白している点からたやすく信用することができないのみならず、仮に少し明るかつたとしても見えたかどうか分らず、又見えたことにはならない。さらに、犯行後現場に逸速く駆け付けた警察官武内一孝の証言によれば、「午前五時三〇分ころ現場につき手探りで中に入つたが、家の中は真暗闇だつた。部屋の中は相当暗く人が何人いるか判る明るさではない、白いものがかすかに判る程度だつた。顔形は判らなかつた。最初行つた時は真暗だつたが、そのうちに人影位は判るようになつた。障子を開けて座敷へ上ると茂子が白い感じの着物を着ているのが判つた。部屋の状態は真白いものを見たら白いと感じる程度だつた。注意して見て目が馴れたら(布団の)白い感じはする。」というものであり、又同じくその頃駆けつけた森本巡査の証言というのは「私は武内と一緒に現場に参りましたが、途中電池を取りに引返したので少し遅れて現場に着きました。家の中は真暗でしたので、すぐ電池をつけました。」というものであつて、「白い影」のみならず「背恰好」「向き」「人数」「動き」が認知できるという西野や阿部の証言は右検証及び武内らの証言等に照し措信しがたいものである。

次に、西野、阿部の目撃状況に関する捜査段階における供述について検討を加えておくと、同人らの供述調書は第一審においては証拠として提出されず、第二審においてはじめて提出され同意のうえ取調べがなされている。そして、第二審はこれらの調書を両名の証言の信憑性を判断する資料として検討の対象とし、その結果「西野の証言、同人の検察官に対する供述調書では相当明瞭に見えた趣旨を述べている個所もあれば又背の高低もはつきりしなかつたとの趣旨のものである。しかし同人が見た当時の明暗度、その後の事件の異常が発展、さらにこれについて尋問を受けるに至つたのは事件後優に数ケ月も後なること等を考慮すればそのような動揺があるからとて直ちに見たこと自体虚偽なりとは断定できない」と判断している。これに対し、原決定は、公判段階における供述との相異が著しいこと、供述の形成過程が不自然であることを理由に、両名の目撃自体に疑問を投げかけている。確かに、両名の供述調書をみると、西野は、「大将と向かい合つて奥さんが立つているのが見えた」「二人とも白つぽい寝巻姿だつた」「頭の髪や背恰好から見てそれが奥さんであることは絶対に間違いない」(以上八月一〇日付検察官調書)「奥様の様にパーマネントをかけていた」「組合つているような格好で立つていた」(以上八月一〇日付裁判官による証人尋問調書)と述べ、阿部は、「主人が私らの方を向いて立つており、主人と向かい合つて背が主人よりも低い人で白い寝巻を着ている人が立つて、二人が互いにいがみ合つているのを見た」(八月一〇日付検察官調書)「座敷の中で主人が南西に向き、それに向かい合つて、白い着物を着た主人より二、三寸背の低い人と主人が争つている」「組つては居らなかつたが、二人は殴り合つていたように見えた」(以上八月一一日付裁判官による証人尋問調書)と述べ、いずれも茂子と亀三郎の格闘の状況をかなり明瞭に述べており、公判廷における供述との相違はかなり顕著であることは否定できない。又「暗くてはつきりわかりませんが寝巻を着ていたように思います」「奥さんではないかと思いました」(西野前記証人尋問調書)、「電燈がついていなかつたので判然解りませんでしたが多分主人と奥さんが夫婦喧嘩でもしていると思つて」「(主人の顔は)はつきり見えませんでしたが格好から主人であると思いました」(阿部前記証人尋問調書)などと述べている部分もある。右の明瞭に述べている部分にはかなり推測或は想像を交えての供述があると考えられる。なお西野、阿部は目撃事実を八月一〇日に至つてはじめて述べているが、西野、阿部は八月一〇日まで目撃事実を秘していた理由について、西野は、「この事を申上げますと、三枝の奥さんの嫌疑が一層深くなり、私としては甚だ言いづらかつたのであります。もう一つにはこの点は私の口からでなく阿部君の口から直接先に聞いて頂きたかつたのであります。然しこんなことを隠していては何日までも事件の解決がつかないと思いますから正直に申述べます。」と述べ(八月一〇日付供述調書)、阿部は、「奥さんが退院して店に出るようになつて間もないころ、私が警察へ呼ばれて行く時、奥さんが私に『あんたあの時座敷でドタンバタンしていたのを見とつたで』と尋ねたので、見たように思うと答えたところ、はつきりせんことは警察で尋ねられても云わん方がいいといつて、隠して貰いたいようにいつたので今日迄何度尋ねられてもいわなかつた」(八月一〇日付供述調書)、「刀を持つていた疑いで逮捕されたのでどうせこの事はいわねばならんと思つていう気になつた」(証人尋問調書)と述べているが不自然という外はない。

西野、阿部の公判証言は捜査段階の供述との相違が著しく、その供述に比し大分後退していることが明らかである。しかし、それでも、西野は第一審二回公判において、「頭髪は充分見えなかつた」と述べつつも、「背恰好」「向き」「位置」「動き」「人数」が判つた旨供述し、阿部も、第一審二回公判において、「人影」「向き」「顔形」「背の高さ」「人数」「動き」が判つた旨供述している。両名は第二審の証言では更に後退し、後に偽証告白の中では、格闘目撃供述の虚偽であることを供述している。これらの事実に前記検証の結果、武内証言等を併せて考えると、両名の前記証言及び捜査段階における前記供述はたやすく信用することができない。

(二) 新証拠について

徳島大学教養部教授実験心理学専攻の伊東三四は、西野、阿部がその供述するように四畳半の間を覗いたとしてどの程度の認知が可能であつたかを知るため、事件発生現場に類似した条件を再構成し、照度測定を行い、実験室内においていろいろな照度水準を設定して人物の認知実験を行つた。その結果は、犯行時刻とされる午前五時一〇分(日の出前一時間一四分)前後の照度は0.25×10-4ルクス未満と推定され、認知実験によればこの照度水準のもとでは着衣と背景の状況いかんにかかわらず人の姿の認知はもとより白いものがかすかに白く感じられることさえないというのである(同人作成の鑑定書、補充意見書、補充鑑定書、同人の原審証言等)。原決定は、右の伊東鑑定の結果を採用し、西野、阿部の目撃供述は科学的にも成立たないと考えるほかないと結論した。これに対し、検察官の所論は、名古屋大学教授眼科学専攻の市川宏の鑑定及び通産省工業技術院電子技術総合研究所量子技術部応用光学研究室長大場信英の鑑定により伊東鑑定の信用性は否定され、証拠の明白性がないことが明らかになつたと主張するものである。

当裁判所は、右の所論にかんがみ記録に当審における事実取調べの結果を加えて検討したところ、伊東鑑定にはなおいくつかの疑問が存するが、結局伊東鑑定をもつて阿部、西野の目撃供述を否定する一資料となしうると考える。その理由を述べれば次のとおりである。

1  条件設定について

伊東鑑定によれば、徳島市八万町中津山四番一六の地に事件発生現場と近似した仮設小屋を設置し、照度測定を行つた。現地は眉山の尾根から南に伸びた支稜を開発した住宅地であるが住家は数軒点在するのみである。仮設小屋は旧三枝電器店奥四畳半の間およびそれに付随した玄関、台所、廊下を再現した仮設建造物である。小屋の東方の眉山ドライブウェイの夜間照明などが影響を与えることを考慮して小屋の東側の窓から約1.0メートル離れた位置に高さ2.7メートル、巾4.5メートルのベニヤ板の側壁を設置し、小屋の南側の住家の広い白壁の反射光の影響を考慮して小屋の南側縁より約1.5メートル離れた位置にベニヤ板の衝立を設置した。照度測定は昭和五三年一月八日、同年三月七日の二回にわたり行われ、その際の自然条件は、一月八日において、日の出七時八分、月の出五時四二分、月齢28.4、天候曇り一時小雨、三月七日において、日の出六時二四分、月の出四時四九分、月齢27.5、天候晴れ、事件発生日において、日の出六時二四分、月の出四時五三分、月齢28.1、天候午前三時曇りですきまあり(雲量一〇ですきまあり)、午前九時快晴となつていた。ところで、原決定は、三月七日の測定時は月齢、日の出時刻の点から犯行時より明るい条件下にあること、天空のひろがりは、犯行現場の方がむしろ谷間にあつて照度は測定時の方が高いこと、市街地全体の夜間照明は昭和二八年に比して昭和五三年の方がはるかに高いこと等を理由に、犯行時より明るい条件のもとに測定が行われていると判示している。

しかしながら、日の出前の白い影が見えるか否かという極低照度の水準が問題とされる場合、照度に影響を及ぼす条件は限りなく多様であつてしかもその程度は微妙であり、とくに本件犯行現場のように二〇数年前の特定の複雑な環境のもとに置かれた室内が対象であつてみれば、その状況を再現することは不可能に近いといわなければならない。犯行現場の三枝家は、徳島駅に近い人家の密集地帯にあり夜間でも人工照明が多数存するであろうし、交通機関、人通りその他の商業活動による空中の塵埃、煙霧(による散乱した光)や周囲の建物の状況と天空のひろがり、光の反射等考慮すべき条件は複雑である。このように考えると、原決定のいうように、犯行時より測定時の方が市街地全体の夜間照明が高いとの一般論や月齢等からして測定時の方がより明るい条件下にあつたとみるには疑問がある。市川鑑定人は、仮設小屋に於ける照度値がどこまで当時の照明環境を再現し得たか疑問が残るといい、大場鑑定人は、事件現場の方がむしろ明るいと推定すると結論している。

2  照明度測定について

伊東鑑定によれば、東芝光電照度測定装置によつて仮設小屋内A点(茂子が立つていたとされている箇所で部屋中央付近)の照度を測定した結果は次の図のとおりである。なお、伊東鑑定人は昭和五六年一一月五日同様の測定を行つている。

右の測定結果によれば、三月七日の測定において、事件発生時刻のころの照度値に比べてそれ以前の時刻の照度値が上つており、しかも日の出前一時間四九分の時点と同一時間三九分の時点の照度が1.0×10-4ルクスを示しながら、その中間の時点では0.5×10-4ルクスを示しており、伊東鑑定によつてもその変動の理由を合理的に説明し得ていない。一月八日の測定においてはさらにその変動は大きく、日の出前二時間の時点で4×10-4ルクスを示してその後照度が次第に下がり、事件発生時刻のころにはまた照度が上がり、その後一旦下がつて再び上がつている。一月八日の測定値については当時の気候が影響していると思われるが、このことはまた低照度の測定は状況によつて大きく左右されることを示しており(伊東鑑定によれば三月七日の測定時仮設小屋内への入射光は主として夜光であるというが、夜光は季節により時間により変化する)、従つて、伊東鑑定の数回の測定結果をもとに本件犯行時の明暗を推測するには自ら限度がある。この点は昭和五六年一一月五日になされた新たな測定結果を加えて検討しても変らない。

3  認知実験について

伊東鑑定の認知実験は、実験室内において各種の照明水準を設定してその中に立つた人の姿を観察したものである。観察者から西野、阿部の目撃距離に相当する三二五センチメートルの位置に被観察者を立たせ、その中間に光源として白熱電球を設置し、電球の電圧を変化させて明るさを増減させ、視力各1.0の鑑定人と補助者一名が約三〇分間暗順応したのち観察にあたつた。その結果は、(一)10-4ルクスでは全く見えない、(二)1.8×10-4ルクスでは白衣をきた時かすかに白いものが見えるというのである。そして、伊東鑑定は、前記照度測定の結果及び右の認知実験をもとに、本件犯行時の照度下では西野、阿部が四畳半の間の目撃に関して捜査段階及び公判廷において述べるような認知は不可能であるとの鑑定結果を示し、原決定は右の結果を採用して、両名の証言は虚偽のものであると結論している。

しかしながら、仮設小屋が犯行現場を忠実に再現し得たか、また小屋内の照度測定が犯行時を推測する有効な資料となり得るか幾多の疑問があることは既に述べたとおりであるが、右の認知実験にも、主として仮設小屋での明るさを忠実に再現し得たかの観点から、実験結果をたやすく肯認し難い多くの疑問がある。すなわち、右認知実験では照度光源として白熱電球が用いられ、これにスライダックにより電圧を変化させ各水準の照度を設定したものであるが、市川鑑定が、暗所視水準の低照度を示すのに明所視系の測光を行つていると批判したのに対し、伊東鑑定は、二種類の光源による暗所視水準の照度を明所視系の測光値で表わしても光の色温度が同じであればその等価関係はそのまま成り立つとの考えを前提としたうえ、白熱電球10-4ルクスの照度では色温度が1000K(ケルビン)であり、他方仮設小屋内へ入射した光と考えられる夜光は色温度がやはり1000Kあたりと推定されるから、認知実験において用いられた光源の選択等実験の手法に誤りはないという。しかしながら、大場鑑定によれば、測光器及び目は光の波長に関して極めて選択的な応答(又は感覚)をもつので、一般に測光又は視覚に関する実験においては、測光器又は目に入射する光の分光分布(相対分光分布)及び測光器又は目の分光感度(比視感度)を考慮に入れる必要がある。そして、一般に発光機構や発光条件が異なる光については相対分光分布が同一になることはなく、同じ色を呈しても相対分光分布が異なる光は無数にある。従つて、白熱電球のような温度放射体相互間についてのみ記述する場合は色温度で表わせば足りるが発光機構が温度放射でない光については色温度ではなく相対分光分布を表わさなければならない。つまり、相対分光分布が異なる二種類の光については、明所視系の測光で表わした照度値は、暗所視においては等価関係が一般には成立しないのであり、これらの光の測定又はこれらの光を用いての視覚実験を、相対分光感度の異なる測光器又は目を用いて行つたときは、これらの相違に基づく誤差を補正するか、又はその誤差が要求される精度に対しては補正を必要としないことを示さなければならない。これを本認知実験についてみると、夜光の相対分光分布は色温度1000Kの白熱電球の光のそれとは概形においてすら似ておらず、この二つの光と色温度2800Kの白熱電球の光が明所視と暗所視でどの程度異なつて見えるかを計算してみると、色温度1000Kの白熱電球の光は、照度計の指示値が同一になる夜光に比し約六分の一、同じく色温度2800Kの白熱電球の光に比し約五分の一程度の刺激を暗順応した目に与えるに過ぎない。従つて、大場鑑定によれば、伊東鑑定が仮設小屋の実験での照度計への入射光を夜光とした場合はもちろん、仮に街灯、他の家の門灯、屋内灯のような色温度がほぼ2800Kの白熱電球の光が拡散反射して照度計に入つたとしても、実験室内で認知実験に色温度1000Kの白熱電球の光を用いたことは不適当であるということになる。伊東鑑定には、このほか、観察者の年齢につき、本件で極めて低い照度における明暗の感覚の閾値が問題であり、その感覚は一〇歳代の後半から二〇歳代までが最も良い状態になるところ、西野、阿部は一六歳の少年であるのに対し、伊東鑑定の観察者はこれと異なること、光源の数と配置につき、認知実験では一個の光源により一方向から照射しているが、仮設小屋では照度計が受け入れることのできる以上の光が上下左右からあつたと推測されるので、認知実験の方法では光の入射状況を忠実に再現しているとはいえないこと、光源の位置につき、認知実験では光源を被観察者から一二〇乃至一三〇センチメートルのところに置いているが、これでは被観察者に近過ぎてその各部に大きな照度の不均一が生じること等の問題点を指摘することができる。

原決定は、「(伊東鑑定では)夫々の時間帯における照度の絶対値を求めること自体に目的があるのではなく、日の出前の夫々の時刻に応じてどのような照度値の変化があるのか、そして西野、阿部が本件犯行を目撃したとする日の出の約一時間一四分前における照度はどのようなものか、その照度下における人間の視覚による認知力がおよそどのようなものかを知るための認知実験の結果との対応関係に最大の眼目がある。従つて、右照度測定と認知実験に用いる器機が同一の照度計でなされる限り、仮に市川証人の述べる色温度等による誤差があつたとしても、右の対応関係に基本的な変化があるとは考えられない」と判示するけれども、伊東鑑定には、仮設小屋の設置や測定時の自然条件等環境の類似性、測定の正確性、認知実験における照度の再現等の諸点において前記のような疑問がある。

しかしながら、あらゆる条件を満す実験方法、あるいは事件当時の状況、条件を完全に再現する実験方法は不可能であることはいうまでもない。伊東鑑定の本件照度測定は、確定記録中の実況見分調書、検証調書によつて認められる周囲の建物の状況に合わせて現場の状況を再現し、事件発生当時と出来るだけ近似した仮設小屋を設定し、出来るだけ事件当時と近い条件下に行われたもので、市川宏証人も「私が依頼されても、この条件以上に出来なかつたであろう」と証言し、「伊東鑑定の採用した実験方法、測定の精度、認知実験のもとで行われた鑑定内容と結論についてはこれを変更せしめる程の問題点は見出せない」と証言しているのである。これらの点から考えても伊東鑑定書が全く証拠価値のないものとはいえない。

ところで、伊東鑑定書によれば、視力1.0の観察者について、約三〇分間暗順応させた後、西野、阿部の目撃距離に相当する三二五センチメートルの距離にある被観察者を対象として、白熱電球の電圧変化方式により10-4ルクスからほぼ人の姿が認知できるまでの照明水準を設定して認知実験を行つた結果、

(A)  10-4ルクスでは全く見えない。

(B)  室内で白い物が宙に浮いているとか、かすかに白い物が動いて見えるためには、少くとも1.8×10-4ルクスの照度が必要である。

(C)  室内の人間の背丈、身体つきを見分けるためには、1.8×10-3ルクスの照度が必要である。

ことが判明したというのである。夫々の認知の照度を科学的に証明したものである。

本件犯行を目撃したという西野、阿部の証言によれば、西野は、白い人影の「向き」「位置」「背恰好」「人数」が判り、阿部は「人影」「向き」「位置」「背の高さ」「顔形」が判つたというのである。両名の証言による認知可能な照度は1.8×10-3ルクスでなければならないから、同鑑定の推定照度のもとではこれらの認知は成り立たないということになる。

又、武内巡査の本件犯行当日午前五時三〇分頃の三枝方店内及び四畳半の部屋の明暗と視覚についての証言ないし供述によれば、「現場の部屋の中は相当に暗く、白いものがかすかにわかる程度だつた」「人の顔形はわからなかつた」「人が何人いるかわかるような明るさでなかつた」というのである。この証言内容に相応する認知の照度は1.8×10-4ルクスと考えられるが、右の照度水準においても、西野、阿部の証言内容に相応する認知は成り立ちえないことが判る。両名と武内巡査の各証言内容に相応する認知の照度の差異を科学的に裏付けるものである。

右照度下における認知実験の結果によると、両名が供述しているような視覚による認知は成り立たないとする原決定は首肯することができる。

(三) 結論

以上の、西野清、阿部守良の目撃供述に関する新旧証拠を総合すれば、右両名の目撃証言あるいは供述は信用性に欠けるものということができる。従つて、新証拠に明白性を認めた原決定の判断は肯認することができ、検察官の論旨は理由がない。

三 電話線、電灯線の切断(二度切断)について(同補充書第二の三)

西野清の第一、二審における証言(検察官調書も同じ)によれば、同人は茂子に頼まれ犯行現場の三枝方屋根上にある電話線、電灯線を切断したというのである。右証言が真実であるとすると、これが茂子の自白と相まつて茂子が犯人であることを決定ずける重要な証拠となることは明らかである。西野が証言する事実のうち、三枝方屋根上の電話線、電灯線が切断されていたことは証拠上争う余地のない事実であるが、このこと自体は茂子と犯行とを結びつけるものでないことはもちろん、西野の証言の信憑性を格別裏付ける事実でもない。しかし、これらの切断が西野の証言するように、電話線と電灯線とで異なつた時期になされ、しかも電灯線の方が犯行後かなりの時間が経過して警察官の到着したのちになされたとすれば、外部の犯人がこれらの切断を行なうことは考えられないから、必然切断は内部の者すなわち茂子に頼まれた西野ということにならざるを得ない。従つて、電話線、電灯線の切断の時期の確定が、西野の証言の信用性の有無ひいては茂子が犯人か否かを左右する極めて重要な要素となるわけである。

原決定は、西野の証言(供述)は、電話線、電灯線切断を茂子より依頼された状況につき、当該供述自体の中に重要な変遷推移があり弁護人の反対尋問の吟味にも沈黙し、到底これに耐え得たとみるには至難であり、論理法則、経験法則に合致しない部分を多く含んでいること、切断の時期につき、西野があえて二度の機会に分けて電話線と電灯線を切断したとする納得の行く根拠は発見し難く、供述の重要な部分において変還推移しその内容自体不自然であり、他の証拠との符合関係についても食違いがあること、切断の方法につき、その内容は変化、動揺、矛盾を極めていることなどからみて信用性がない、新証拠を加えて検討すると、四国電力係員坂尾安一により配電盤の蓋が閉められて点灯する前に西野が切断された電灯線をブリッジ状に補修していることが明らかになつたとして、西野証言が偽証であると判示している。

これに対し検察官の所論は、原決定は、多数の警察官による電灯線の切断の現認という動かすべからざる事実をすべて否定し、物的証拠を無視し、検察官の反証により信用性に乏しく明白性の認められない新証拠の評価を誤つて明白性を認め極めて恣意的な判断をして右の結論に達したものであつて明らかに失当である、原決定は坂尾安一による点灯後再度消灯した客観的事実を合理的に説明することができない明白な矛盾を蔵しているのであつて、それ故にこそこの点について何等言及していないことに注目すべきであるというのである。

そこで、以下に検討を加えることとする。

(一) 西野清の証言(供述)について

西野の証言に基づき第二審判決が認定した電灯線、電話線の切断の前後の状況、その時間的経過は次のとおりである。

「阿部守良は茂子から懐中電灯を渡され市民病院へ行くよう頼まれ、自転車に乗つて病院へ行つた。同人が出た後西野清は、茂子から匕首を渡され「これで電灯線と電話線を切つてくれ」といわれた。西野は、茂子に命ぜられるまま表へ出、建築中の新館足場を伝つて屋根上に出、電話線を引込口で数回匕首で切り込み折り曲げて切断した。電灯線は後に切断することとして屋根を下り茂子に切断した旨告げて匕首を返した。茂子は、さらに西野に大道へ行つて子供等を起こしてきてくれと命ずるとともに、新聞紙で巻いた細長いものを差し出しこれを捨ててくれと命じた。西野は、自転車に乗り大道へ向う途中両国橋から右新聞包みのものを河中へ投げ捨て、次いで両国橋派出所に泥棒が入つたと届けをし、大道へ行つて家人に知らせて帰つた。そして、西野は、電灯線を切断するため新館表足場から屋上に上ろうとしたとき隣家の新開鶴吉に発見され「危いぞ」と注意されたので一旦中止した。間もなく、茂子は入院のため家を出、西野は病院へ布団を運び、近所で七輪を買い入れて病院へ届けて帰り、阿部とともに寝巻の着換えをし、洗面をしようとするとき新館風呂場焚口付近の壁に刃先を上にして立てかけた匕首を阿部が発見した。洗面を終つた西野は、新館を上つて店舗屋上に出、引込口付近で電灯線にナイフで切込みをつけペンチで折り曲げて切断し、直ちに現場にきていた警察官に電灯線が切られていることを申告し警察官を案内して切断箇所を示した。その後西野は、警察署等で取調べを受け帰宅後店舗から電線を持ち出し屋上の切断した電灯線を接続して修理した」以上のとおりである。

ところで、原決定は、電話線、電灯線切断に関する西野供述にみられる疑問点を数多く指摘し、供述の信憑性を否定するのであるが、この点については既に第二審判決において論ぜられ、又第四次再審請求においても主張され判断がなされているが、原決定の詳細な説示とこれに対する検察官の所論にかんがみ検討を加える。

1  切断の依頼

まず切断の依頼の内容についてみると、原決定は西野の公判証言と捜査段階の供述とは顕著な相違を示していると判示する。確かに、捜査段階の供述においては、切断をはじめて述べた昭和二九・七・二一検察官調書(以下単に検調ともいう)では「茂子は私に対し屋根に上つて電灯線と電話線を切つてくれと頼んだ」、「茂子が入院するとき電話線だけ切つたというと茂子は『早く出来るだけ根元から電灯線を屋根の上で切つておけ』と頼んだ」と供述しており、昭二九・七・二三弁解録取書では「茂子から屋根の上の線を切つてくれと頼まれた」旨、昭二九・七・二四検調では「屋根に上つて電線を出来るだけ根元から切つてくれと頼んだ」旨述べており、これに対し公判証言では、「これで電灯線と電話線を切つてくれといつて何か切れ物のようなものを渡された」(第一審第二回公判)、「何所の線を切れとはいわれませんでした」(第一審第一一回公判)、「(電灯線の切る場所は)聞きませんでした」、「(屋根の上へ上つて切つて来いとは)言われませんでした」(第二審第三回公判)と証言し、切断場所に関し捜査段階の供述と証言との間に顕著な相違があることは明らかである。しかし、これらの供述や証言自体の中にも内容に微妙な相違があり、例えば、捜査段階の供述では、昭二九・七・二六検調で「茂子は私にこれで線を切つてくれといつて匕首を手渡した」と述べ、昭二九・八・三検調及び昭二九・八・五検調でも「茂子は私にこれで電話線と電灯線を切つてきてくれといつた」と述べ、昭二九・八・一〇証人尋問調書でも右と同旨のことを証言し、切る場所のことについては述べていないのであり、他方公判証言でも、「どの辺を切つてこいといわれたか現在記憶がない」「根元の方から切つてこいという話があつたかどうかは今は憶えていない、前に検察官に対して述べた調書のとおり間違いないと思う、検察官の取調べを受けた時には記憶が新らしかつたのでそのとおり間違いないと思う」(第一審第一二回公判)、「(電話線だけ切つたと話したら早よう電灯線も屋根へ上つて根元から切つてくれと奥さんから言はれたことはなかつたかとの質問に対し)場所は忘れたがそういう話はしたように思う」と検察官調書に近い証言をしているのである。このように西野の証言及び供述調書の内容をみてくると、西野が茂子から電話線、電灯線の切断を依頼され実行したとする点では変らず、茂子が切断箇所を屋根上と指示したかどうかはかなり微妙である。この点につき、原決定は、「日の出前の暗闇の時間にあえて危険を犯して屋根上に上り電線を切断するというのであるから、真実電線の切断を依頼されたのであれば、切断箇所についても何らかの指示があつた筈と考えられるし、又西野が自らの判断で屋根上の電線を切断したものであれば、その動機において何らかの特段の事情が存在したものと考えるのが合理的であるが同人の公判証言はこれらの疑問については何ら答えるところがない」と判示するが、これと対照的に第二審判決は、「切断箇所を指示されなかつたとしても、切断の目的の如何、室内電話機の傍に居ながら切断用具を手渡し、切断を命ぜられていることから賊の侵入を装うため屋外で切断せよとの意なることは西野としても容易に判断し得るところであるから、屋上引込口を選んだことはしかく不可解とするに当らない」と判示するのである。西野自身は何故屋根の上に上つて切つたかについて公判証言で、「下では切るといつても切るところはないので屋根へ上りました」「室内では切れないと思いました」(第一審第一一回公判)、「店から外へ出たら屋根の上に見えたので切つたのです」(第二審第三回公判)と一応の理由は述べている。

次に原決定は、茂子が阿部に警察へ通報することを求めながら電話線等の切断を命ずることは不自然である、三枝電機商会には電線を切断するための道具は他にいくらでもある筈なのに匕首を渡すことは奇妙であるという。茂子は外部犯人を偽装するため警察への通報方依頼の後に西野に切断を頼んだということは不自然であるという外はないが、匕首を渡した点については、外部犯人の偽装をしようとする者が切断用具として犯人所持を思わせる匕首を使用させることは考え方によつては不自然ではないと考えられる。しかし、証跡を残しかねない西野への偽装工作の依頼について、第二審判決が犯罪者の心理の面から試みた理由づけ、すなわち「所論のようにわざわざ証跡を残す行為である半面犯罪者の心理としては協力者を得ることの安堵感、その秘匿上の便も考え得るところである。一面には所論のように発覚の危険があるかもしれないが相手方は少年で自家の雇い人であるということは、右の目的には恰好の関係にあることも考うべきである」との判示は全く根拠の乏しい推論又は想像であつて合理性のないものである。さらに、原決定が第二審判決に存する論理矛盾として指摘するところの、茂子が四畳半の間の障子ガラス戸開放等の偽装工作をして殺害の目的を遂げたと認定する以上、その後に新館裏側へ足を運ぶ必要はなく、外部犯人追跡の偽装ならば西野、阿部に見られて狼狽したとするのは矛盾しているとの点については、茂子が狼狽したというのは第二審判決が支持する第一審判決の説示にみられるものであるが、第一審判決は茂子が裏通路に出たのは犯行が気付かれていないかどうかを確認するためであつたというのであり、了解できないこともない。しかし西野、阿部に見られたから狼狽したとする点は、原決定の如く、疑問が残る。

ところで、以上の事実に、西野はその後右の切断の依頼の証言が虚偽であつた旨告白しており、又茂子も自白を撤回し、否認していること、他に西野の切断依頼の証言を裏付ける証拠もないことを併せ考えると、茂子より電話線、電灯線切断の依頼を受けたとする西野供述は、原決定がいうとおり、その信用性に乏しいといわなければならない。

2  切断の方法

原決定は、西野の電話線、電灯線の切断方法に関する供述は、変化、動揺、矛盾を極めているという。

まず、電話線についてみると、公判証言では茂子より渡された匕首で切断した旨述べているところ、捜査段階の供述では、はじめて電話線、電灯線の切断を述べた昭二九・七・二一検調でニッパーかペンチといい、次いで昭二九・七・二四検調でニッパーと述べたが、昭二九・七・二六検調で茂子から渡された匕首と述べてからは、昭二九・七・三一検察事務官調書、八・三検調、八・四同、八・五同、八・一〇証人尋問調書で一貫して匕首で切断した旨述べている。右の供述の経過によれば、昭和二九年七月二六日に匕首のことを自供してからは公判証言に至るまでその供述は変つておらない。

次に、電灯線の方についてみると、公判証言では、ナイフで切り込みをいれペンチで挾んで折り曲げて切断した旨供述している(尤も第二審第三回公判ではペンチで切つた旨証言している部分もある。)ところ、捜査段階では、昭二九・七・二一検調(逮捕前)でニッパーかペンチで切断したと述べたが、同日付検調(逮捕後)ではペンチで切断となり、それ以後は切断用具をペンチとすることでほぼ一貫し(昭二九・七・二三検調、七・二四検調、七・二六検調、七・三一検察事務官調書、八・三検調、八・四検調、八・五検調、八・一〇証人尋問調書、九・一検証調書)、昭二九・九・三検調で公判証言と同じ供述をしている。右の供述経過をみると、切断用具にニッパーと述べたのは最初だけでそれもペンチかも知れぬというあいまいなものであり、その後はペンチ使用ということで変らず、九・三検調でナイフが加わり、これが公判証言に引き継がれているということになる。ナイフが加わつたことにより電灯線切断の方法態様に大きく相違が生じているので、電話線の切断にくらべればこの供述の変化は大きいといわなければならないから、切断用具がペンチでなくなつたというわけでなく、これにナイフが加わつたにしても、供述が原決定のいうとおり変化、動揺、矛盾しているということができる。原決定は、右の昭二九・九・三検調の供述内容の変更は、科学捜査研究所技官大久保柔彦作成の鑑定書(昭和二九年九月一一日付)の鑑定が昭和二九年八月三〇日終了し、その鑑定結果である「電話線と電灯線はいずれもナイフ状工具によつて切り込みを与えたのち繰返し曲げを与えて切断したものである」との結論を知つた捜査官が西野を誘導もしくは強制し西野がこれに迎合して作成したと推認する余地があり、このことは警察官調書に依拠して尋問しこれに答えた西野の公判証言の信憑性をも決定的に傷つける結果になるという。西野は九月三日家庭裁判所において保護観察処分を受け、昭二九・九・三検調は釈放後の調書であるが、西野は右調書の中で供述を変えた理由について「これまで電灯線はペンチだけで切つたように述べたのはペンチとナイフの両方をもつて屋根に上つたのでペンチだけで切る方が早いはずだからペンチで切つたのではなかろうかと考えてその様に述べたが、よく当時の記憶をたどつて見ると今日のが正しいと思うので申し添えた次第です」と述べているが、切断の方法についてはそれまで一か月以上にもわたり何度も取調べを受けて供述し、検証にも立会つて指示していながら、九月三日に至つてはじめて思い出したというのも不自然であり、前記供述調書の内容は捜査官の誘導に基づくものあるいは、迎合したものと考える余地がある。もとより鑑定結果等客観的事実関係に基づき供述との食い違いを問いただすことは捜査官として当然であり、その結果記憶が喚起され従前の供述が変更される場合もあり得る。とくに、西野の供述は事件後九か月前後経過してのことであり、事件当時のあわただしい経験の中で記憶の忘失もありうるから、検察官から事実を示され、あらためて記憶を辿り直し、ナイフを使用したことを憶い出すこともあり得る。しかしながら、事件直後の昭和二八年一一月頃から同二九年七月二一日の前日までの捜査段階における西野の供述調書には切断に関する供述が全くないこと、西野は後日切断方法に関する供述について偽証告白していることなどを併せ考えると、原決定のように前記の如き指摘から西野の供述が検察官の誘導、あるいは強い追及により迎合して述べた虚偽の供述である疑いがあるといわねばならない。なお、昭和二九年七月二九日受信東京地検次席検事から徳島地検次席検事宛法務電信(不提出記録に在中)によれば、「大久保技官の鑑定結果を聴取するに資料たる電話線の一本にナイフで切り込んだと思われる明瞭なあとが二箇、電灯線の一本にナイフで切り込んだと思われる軽いあと二箇があり、資料たる電線類の指示切断面はナイフで切り込んだ上折曲げて切断したものと思われる」との回答返電があり、さらに同年八月一一日発信徳島地検次席から東京地検特捜部伊藤検事宛法務電信によれば、「取調べの結果電灯線についてはペンチで挟み左右に数回ねじ廻して銅線が折れたと自供しているが、切断面からかようなことが認められるか否か」との照会電信をしていることが認められ、捜査官としては取調べの早い段階から大久保鑑定の結果のあらましを知り、なおかつ電灯線の切断はペンチであるとの供述を録取していたものと認められるが、その頃はまだ鑑定の途中であり、原決定の推測するように、八月三〇日ころに鑑定終了により鑑定結果を確認したと推測されるのである。

3  二度切断の理由

原決定は、同じ屋上にある電話線と電灯線が同じような方法で切断されていたものであるからこれらが全く別々の機会に切断されたというのはそれ自体如何にも不自然であり、西野供述ではその理由が変化し、どれをとつても納得の行くものではないという。西野の公判証言によれば、「電灯線は匕首等では切れないのでもう一度上つて切る心算でした」(第一審第二回公判)、「あまり線が太かつたので刃物はあてずに線を見ただけで切るのを止めました」(第一審第一一回公判)、「匕首では電話線がやつと切れたぐらいだから電灯線は切れないと思つて止めたのです」(第二審第三回公判)と述べているが、捜査段階における供述をみると、「後でいるかも知れないと思つたのと、たとえ雇主から頼まれたとはいえ気が進まなかつた、電灯線は看板の裏手にあるので表側や裏側から人に見付けられるおそれがないと思つた、電話線は看板のすぐ上にあつて暗いうちに切つておかねば人に見付かるおそれがあつたのですぐこの線だけを切つた」(昭二九・七・二一検調)、「ニッパーでは中々切れなかつたので機会があれば切ろうと思つて下へ降りた」(昭二九・七・二四検調)、「電灯線を切つてしまつては又下で明りがいるような時に困るだろうと思つて、電灯線だけは少し夜が明けて明るくなつてから切ろうと思つた」(昭二九・八・三検調)、「電灯線は又あとでいるかもしれないと思つて切らなかつた」(昭二九・八・五検調)、「後でいると思つたし暗かつたので医者がきて困ると思つた、明るくなつてから切つてやろうという心算りだつた」(昭二九・八・一〇証人尋問調書)などと供述している。西野の右供述中「ニッパーでは中々切れなかつたので」という点は公判証言と類似しているが、供述の変化の過程をみると、電灯線をその時切断しなかつた理由としては「あとで要るかもしれないから」ということにあつたと理解でき、これが公判証言と異なることはいうまでもない。原決定は、これらの相違あるいは変化を重大視し、二度切断を前提とする捜査上の要請の忠実な反映に過ぎないとして西野証言の信用性を否定するのに対し、検察官は、「右の各理由は排斥し合う関係にあるとは認められず、西野の心情としてはすべて二度切断の理由であり、ただ一度にすべてを述べなかつたにとどまると解すれば必ずしも矛盾ではない」と反論する。しかし、前記の如き変化、あるいは内容は極めて不自然であること、村上検事報告書の二度の切断の想定に沿つて西野の供述が変化していることが窺われること、西野が後日偽証告白し、偽証した理由をも述べていることなどを併せ考えると、二度切断に関する西野の供述の信用性には疑問があるといわねばならない。

4  消灯について

検察官は坂尾安一による点灯後の再度消灯は西野による切断であると主張しているが、消灯については色々の原因が考えられる。現に当時停電がしばしば発生していたのである。阿部の第一審公判の証言によれば、電灯が一旦点灯した後の消灯は阿部と西野が共に小屋前の水道で顔を洗つていた時の事であると供述している。再度の消灯即西野の電灯線切断というのは根拠のない想像にすぎないといわざるを得ない。

5  まとめ

以上要するに、電話線、電灯線の切断に関する西野証言を捜査段階における供述にまで遡つて検討してみると、そこにかなりの変化、動揺があり、原決定のいうように、右供述の内容や経過及び西野の偽証告白などから考えて西野の証言の信用性には疑問があるといわねばならない。

(二) 二度切断についての新旧証拠について

西野の公判証言によれば、同人が電話線を切断したのは大道へ行く前であり、電灯線を切断したのは大道から帰つてからのことである。そこで以下に個別に検討する。

1  電話線について

証人尾木伝六の証言によれば、事件当日市民病院の医師として宿直勤務中、朝五時半ころ阿部守良がきて往診を求められ、症状を知るため同人をして市民病院から三枝電機店へ電話をかけさせたが通じなかつたことが認められ、また徳島電話局長作成の徳島地検宛昭和二九年七月一二日付「電話故障判明時刻等についての回答」と題する書面によれば、「故障判明時刻=十一月五日午前六時二分、判明に至つた事情=十一月五日午前五時五〇分頃二一一九番に対し通話の請求があり接続したが応答がないので運用課より試験課に対し加入者不出なる旨を連絡、試験課において試験の結果断線なることが判明した」(なお二一一九番は三枝方の電話番号である)旨の記載があり、これからすると、三枝方の電話線の切断は午前五時五〇分以前であることが明らかである。そして、右の客観的事実との関係では、大道へ行く前に電話線を切断したという西野の証言が矛盾するものではない。

そこで、西野証言に従つた場合の電話線切断の時間的余裕の有無の問題について検討するに、原決定は、「西野は、大道へ行く途中両国橋派出所に届けた午前五時二五分頃(証人森本恒男の第一審第五回公判における証言)以前に電話線を切断していることになるので事件発生推定時刻である午前五時一〇分から最大限見積つても約一五分間の間に電話線の切断を完了したことになる。実際には、茂子の依頼により、西野らが田中佐吉方に警察に電話するよう頼み、右田中の電話連絡により東警察署から両国橋派出所へ電話があつたのが午前五時二〇分であつた(前記森本恒男証言)のであるから、西野が電話線切断に要する時間は更に僅少なものとならざるを得ず、そのような僅かの時間内に、茂子から匕首を受取り、三枝方屋根に上り、暗闇の中で電話線を切断したあと匕首を茂子に返す、などということができるものか極めて疑問である」という。ところで、この点について、第二審判決は、市民病院へ行つた阿部の行動の時間的経過からみて電話線切断の時間はないとの論旨に答えて、「電話線切断にしかく長時間を要するとは考えられずせいぜい数分を出ていないものと認められ、所論に従つても阿部が被告人から電話を頼まれてから病院に向けて出発するまでの時間を七分と見ているがむしろ一、二分の出来事と解して差支えないと思われる。結局所論のように肯定できない。」と判示し、再審請求第一審決定は、田中佐吉による警察への連絡の時間的経過から主張に対し、「弁護人の所論は田中佐吉が阿部守良の声を聞いてから電話によつて徳島市警察を呼び出し、同警察の者がさらにこれを前記両国橋派出所まで電話し、同派出所に詰めていた警察官武内一孝が起きてこの電話を受信するまでの事情、したがつてその間に要した時間を全然考慮に入れていない議論であり、またそれぞれの時刻、所要時間などを所論のように厳密に設定すること自体証拠関係に正確に合致するわけでないうえ、第一、二審の全証拠を検討しても当初田中佐吉が警察署へ電話するよう頼まれてから両国橋派出所に第二回目の電話が届くまでの時間が弁護人の所論のように分単位の計算で五分しかなかつたとは考えられないから、結局西野が当日朝その証言する順序で電話線を切断する時間的余裕がなかつたとの弁護人の所論は採用できない」と判示する。原決定の指摘するとおり、「せいぜい数分を出ていない」僅かな時間内に屋根の上に上り、暗闇の中で切断箇所をさがし、中々切れない電話線を「やつと切断する」ことができるものか疑問である。

2  電灯線について

(1)  三枝方隣人石井雅次の証言によれば、事件発生後間もなく三枝方へ行き、家の中が暗いので故障と思い、新開方の電話を借り電灯会社へ修理を依頼したこと、四国電力徳島営業所勤務四宮忠正の証言によれば、同人は当日朝宿直勤務中三枝方の電気の修理依頼の電話を受け、同じく宿直勤務の坂尾安一を起こして三枝方へ行かせたこと、右四宮が記入した故障受付簿によると、故障受付時刻午前五時五〇分、修理完了時刻午前六時二〇分と記載されていること、坂尾安一の証言によれば、同人はオートバイに乗つて約一五〇メートル離れた三枝方へ行き、着いたのが午前六時頃で店員の案内により配電盤の開閉器のところへ行くと、その蓋が開いており、ヒューズは切れておらず蓋を閉めると店の電気がついたことが認められる。右の事実は疑いを挾む余地のない事実である。そして、午前六時頃、故障受付簿によれば午前六時二〇分、開閉器の蓋を閉めることにより電気がついたということは、いいかえれば三枝方の電灯線の回路はつながつていたということであり、このことは又その時点で電灯線は全く切断されていなかつたか、あるいは切断されてはいたが修理されていたかのどちらかであるということになる。一方時期は別として、電灯線が切断されたことも又動かし得ぬ事実であるから、前者であるとすると、その切断は点灯以後になされたこと、すなわち電話線と電灯線は別々の機会に切断(二度切断)されたことになる。後者だとすると、切断されていたが、点灯以前に修理(早期修理)されていたことになる。従つて、二度切断の有無は、坂尾による点灯時既に電灯線は修理(早期修理)されていたか否かによつて左右されるわけである。

(2)  さて、第一、二審判決は前者の立場をとり、二度切断を認定したわけであるが、その理由とするところは、坂尾による点灯後電灯線の切断されている状態を多数の警察官が現認し証言していること、その状態が実況見分調書に記載されていること、点灯後再び消灯したとの証拠があること等にあると思われる。

これに対し、原決定は後者の立場をとり、西野は坂尾が配電盤の蓋を閉める前に切断された電灯線をブリッジ状に接続修理したものであり、これは実況見分調書添付第九号写真によつて明らかにされており、警察官による切断現認と矛盾せず、西野の偽証告白の内容と合致し、今回提出された新証拠である科学警察研究所技官小松崎盛行作成の昭和三五年二月二二日付鑑定書及び財団法人日本電気用品試験所研究室長富沢一行作成の昭和五四年一〇月二日付鑑定書、同月三一日付鑑定書補足説明書によつて裏付けられているというのである。そこで、右に指摘された各証拠について検討を加えることとする。

はじめに原決定の立論の前提であるブリッジ状の補修の方法及び時期について触れておくと、これは西野清が徳島地方法務局法務事務官安友竹一の調査に対し昭和三三年一〇月一〇日付供述調書において述べているところに基づくもので、それによると西野は、「茂子から電気がつかないということを聞き、スイッチを調べたが異状がなかつたので、配線を調べるため屋根上に登つてみると電灯線が一本切断されており、一旦下におりて巡査にこのことを告げたところ、巡査は切断ケ所を動かさないように別の線を持つていつて補修するように指示したので、店にあつた電線の切れ端をもつて登り、別図のようにして継いだ」と述べている。そして右の別図というのは次のようなものである。

西野の右供述の当否については後で検討することとして、ともかく原決定はこのブリッジ型の補修の故をもつて「本来の電灯線は依然として切断されたままであることには相違がなく、旧証拠中で警察官の証人らが述べている『切断されていました』との供述は右の状態を指すものとも合理的に解し得られるところである」(原決定書三六三丁裏)と判示するものである。

右の理解を前提に旧証拠及び新証拠について検討を進めることとする。

(イ) まず、事故直後三枝方に赴き捜査に従事した警察官が電灯線の切断状況をどのように目撃しているかについてみてみると、後述の実況見分調書の立会人として名を連ねている徳島市警察署巡査櫛渕泰次の第一審第三回公判証言によれば、「午前六時半頃現場へ着いた。三枝方内は電灯はついていなかつた。茂子はおらず病院へ行つたということだつた。まず四畳半の間の茶箪笥のようなものから指紋の検出を始め、次いで部屋の中にあつた懐中電灯についても指紋を調べた。指紋の検出をしている時、電話線、電灯線が切られているということを話しているのが聞こえたので、現場をそのままにしておけ見に行くからといつた。指紋の検出をしたがよい指紋が出ないので、西野らしい店員に現場へ案内して貰つた。電話線は二本撚り合わせた電線の撚りを戻し一本の線が切り離されていた。次いで電灯線のところへ行くと、電灯線は腕木から垂直に屋内に引き込まれている部分を切つてあつた。西野が別に線を持つていたので現場をはつきりさせるためそのままにしておけと注意した。電灯線の切れている状況を撮影し、西野のペンチを借り切り口を二箇所共切り取つた。切り取つて後を修理しとけといつて下へ下りた。下りると真楽部長がおり実地検証をするから手伝つてくれというのでその準備をしていると県本部の鑑識係員がきたのでその手伝いをした」というものである。また、実況見分の立会人でありかつ写真撮影者である徳島市警察巡査村上清一の第一審第三回公判証言によれば、「現場へ午前六時五分か一〇分ころ着いた。西本部長の指揮を受けまず現場撮影をしたが、状況が複雑で市警の鑑識機材では間に合わないと考え国警本部へ応援を求めに行き、鑑識係員の登庁を待ち佐尾山技官、和田警部補らと現場へ引返し、同人らと一緒に現場鑑識に従事した。室内の鑑識が終つて外部の鑑識に移り、次いで店員の西野に案内されて屋根の上の電灯線が切断されている所へ行き、電線が切断されている状態を撮影した。その際その箇所に指紋を残していないかどうかを櫛渕巡査が検出していた」と述べている。さらに、徳島市警察鑑識主任西本義則の第一審第五回公判証言によれば、「午前五時四〇分か四五分ころ現場へ着いた。電線の切れている現場へ午前七時頃行つた。鑑識係の者にその現場へ行つて電線の切れを証拠として持つて帰るように指示しその後に私が現場へ行つた」と述べる、これらの証言はすべて電灯線が切断されている状態を表わしているものであり、それ故原決定も右証言自体を否定していないが、右証言はそれ以上に「切断されているが補修もされている」というブリッジ型の補修の状態をも述べていると理解し得るか疑問がないわけではない。しかしながら、右各証言についても、補修前であれば勿論、補修後であつても「切断されていた」と供述すること可能であり、格別異とするに足りない。補修について何もいつてないからといつて直ちに補修がなかつたと速断することはできない。記録によれば、「切断されていた」と供述する警察官の中には補修の点には全く念頭になく、十分確認していなかつたと思われる者が少くないのである。原決定の説示も十分理解できる。

(ロ) 次に、徳島市警察署巡査真楽與吉郎作成名義の昭和二八年一一月五日付実況見分調書についてみると、実況見分の日時は昭和二八年一一月五日午前七時五〇分から午前一一時五〇分、立会人は亀三郎の長女三枝登志子、徳島市警察署巡査櫛渕泰次、村上清一外、国家地方警察徳島県本部鑑識課員と記載され、実況見分のてん末欄六被害の程度として「店舗入口屋根上の電話線を切断され、更に同所より四メートル南寄つた店舗屋根上の電灯線を一本が切断されて居り、切口を採取して鑑定依頼した」旨の記載があり、現場写真として村上清一巡査撮影にかかる写真二八枚が添付され、そのうち電灯線の切断に関するものは第七号から第一〇号の四枚で、第九号の写真には、「切断された電灯線付近の状況(工事現場二階の窓より撮影したもの)×印が切断箇所を示す」との説明書がある。右の実況見分は犯行後すぐになされたものであるから、外部犯人か内部犯人かが問題となつたその後の捜査段階の資料と比べれば内容に作為の入る余地は乏しいと考えられるが、電灯線切断の状況に関する叙述が簡略であるため詳細を知ることはできないが、右の記載からみる限り、電灯線が切断されていたことはいえるとしても、接続修理されていたかどうか明らかでない。しかしながら、補修の記載がないからといつて補修がなかつたとはいえないのである。補修について重視せず全く念頭になかつたことから、あるいは又記載の不備から補修の記載が省かれていたことも十分考えられるからである。現に右実況見分調書末尾には「不備の点は別紙現場見取図三葉及び現場写真三四葉を以て之れを補充した」と明記しているにもかかわらず、現実には写真は二八葉しか添付されていないのである。これは正に同調書の不備不正確を物語るものに外ならない。原決定は、「既に他の電線によりブリッジ状に接続修理されていることが認められ、西野の偽証告白の内容とも合致する」というので検討するに、実況見分調書添付の第九号写真をみれば、切断された上部の線と下部の線があたかもつながれているかのようにみえる弓状(円弧状)の線が薄く写し出されている。この写真を含む実況見分調書は第一審で取調べ済の証拠であるが、第一、二審では全く問題とされず、これまでの再審請求でも主張がなされた形跡がない。しかし、西野らに対する第一次偽証被疑事件の捜査の過程で問題として取上げられ、電灯線切断の状況を現認したとされる警察官吉内市治、同村上清一、同櫛渕泰次、県警本部技官佐尾山明に第九号の写真を示して当時の事情を聞き、そのいずれもが、自分達が見た時には接続されていなかつたとの供述をしている(吉内の昭和三五年二月五日付検察官調書、村上の同日付調書、櫛渕の同年四月四日付検察官調書、佐尾山の同日付調書)。

しかしながら、吉内市治は、それより一年前の検審での調査において(昭和三四年九月二二日)「屋根の上に上り切断されている電灯線の状態をみましたが、現在どのような状態であつたか覚えていません。ただその切口が鋭利な刃物のようなもので切られたようになつていたことは覚えています」と供述している。このように一年前に切口の様子以外に切断されている電灯線に関しどのような状態であつたか覚えていないと供述した者が、昭和三五年に至つてにわかに補修の事実の有無についてまで答えているのは不自然で措信しがたい。村上清一は一年前の検審調書(昭和三四年九月二二日)で「電灯線の切断個所の近くまで行つたのは何時頃かはつきりしない。電灯線は切断されていましたが、私はその電灯線の切断面を詳細にみませんでした」と述べている。概略的に切断されていることを確認した程度以上の域を出るものでなく、昭和三五年の供述をたやすく信用することはできない。佐尾山明については、同人は第一、第二審公判において証言しているが、電線状況に関しては何ら述べていなかつたことから考えて右供述をそのまま措信できるか疑問である。又櫛渕泰次は右検察官調書において、同人が西野に案内させて切断場所を調べ、写真撮影し、切口付近を証拠品として切り取つたが、同人が写真撮影したときには切口付近に白い紙は巻いてなかつたので第九号の写真は自分が撮影した物ではないと思うと述べているから、「見たとき接続されていなかつた」というのは第九号写真撮影の時ではないことが明らかである。同人の原審第三回公判の証言によれば、「切口を切り取つた後西野に修理しておけといつた」と述べているから、西野の補修前の状況をいつていると考えられる。

科学警察研究所に依頼した鑑定の結果は、「1電線切断箇所(上部切断箇所)のところにある線らしいものは電線と思われる。2電線の連絡は別添写真に示すとおりの結線で下部切断線とは連絡している。」というものであつた(科学警察研究所技官小松崎盛行作成の昭和三五年二月二二日付鑑定書)。尤も右の鑑定結果については、小松崎鑑定人は、昭和五三年六月一三日付検察官に対する供述調書において、「黒い影のように写つているものは現在も電線らしくもありまた板の模様のようにも見える。電線の先の白くなつているのが佐尾山技官のいう結びつけたコヨリであれば電線は右コヨリの部分から切断されていて、連絡しているように見える部分は後方の板の模様が重なつているのかもしれないと思う。」と述べているが、電線である可能性を否定するものではない。なお、右のコヨリの存在は、鑑識係として現場に臨んだ佐尾山明が前記昭和三五年四月四日付検察官調書において、「切り口のところを写真に撮るのに判然さすため切り口へ紙を巻いたらよかろうということになり、誰かが紙を巻き写真を撮つた記憶がある」と述べているところである。

第九号の写真の問題の弓状の影について当審において二個の鑑定結果が報告された。一つは、徳島県警察本部技術吏員長谷目正美作成の昭和五六年二月七日付鑑定書であり、他の一つは、千葉大学工学部画像工学科講師石原俊作成の鑑定書である。長谷目鑑定は、当時使用されていた同種のカメラ、感光材料、現像薬品等を用い、さらに同種の古材、碍子、碍管、被覆電灯線と第九号写真を部分拡大し種々の計測をした結果をもとに鑑定を行つたものであるが、その結果は、接続線と切断線は何れの方法で撮影しても類似した結像となるのに、第九号写真では切断線は比較的はつきり出ているが弓状の接続線は極端に薄く不鮮明なのは不可解である、弓状接続線の下半分が板壁の重合の陰影または木目と重合しているかについて検討しても電線とみなせるものが識別できない、切断被覆線に接続結線された痕跡が識別できないとして、電線は連絡されていないと結論し、さらに第九号写真の弓状の成因についても実験を行い種々の可能性の検討を経て、フィルム原板上に付着した水滴痕による線条痕であるとの判断を示した。これに対し石原鑑定によれば、第九号写真のピンボケした画像に現われている円孤状の線のように、その線が板壁に接触しているような状態にあるか、離れている状態であるかによつて線の太さに変化を生ずる、線が接触しているような状態の場合線自体の影の部分と板壁にできる線の影の部分が合体してその線が太く見えたり、線が離れている状態の場合光が当つている部分の線の濃度が板壁の濃度と同等になり線自体の影の部分だけが現われる時その線は細く見えたりするところ、第九号証の弓状の線は同添付第九号写真の拡大を見れば明らかのように、その下半分は前者に、上半分は後者に当り、右の線は明らかに補修用の電灯線と見るのが妥当である、又フィルム面に水滴が付着したネガで印画紙に焼付けした場合水滴痕の内側と外側では濃度差が現われるので水滴痕の輪郭が分る。その濃度差が大きければはつきり分り、濃度差が小さくなるに従つて不鮮明になるが、第九号写真の円孤状の内側の濃度と外側の濃度に差は認められず、水滴らしい輪郭も認められないので、この部分に水滴はなかつたと見るべきであり、又フィルム原板の水滴が円孤状に印画紙に焼付けされることは考えられない、円孤状の線はネガフィルムに付着した水滴痕ではない、というのである。石原鑑定の前段の結論については、長谷目陳述書(昭和五六年一〇月七日付)は「下部の切断線は碍管を通りさらに左側の碍管から出ている電灯線をまたいで左方へ伸びているから板壁とは間隔があり、接線続が板壁と一部接触することはあり得るとしても、接続線の下半分全部が板壁と接触する状態であつたとは認め難いうえ、下部の切断線と同様の位置及び類似する角度にありながら接続線とされるものが写つていないのは不可解であり、円孤状の線の上半分についても、弓状形をして光のあたり方は同一でないのに同じ陰影をしており、又周囲の他の線には石原鑑定のいうような現象が認められない」という。しかしながら、昭和五六年一二月一五日付石原意見書によれば、「下半分が板壁に『接触しているような状態』とは『極めて接近している状態』という意味であり、円孤状の線の上半分と下半分は弱い光のもとで撮影され、これにピンボケが加わると、場所によつて線が細く見えたり、太く見えたりする。これは印画像の濃さの違いによるものである。印画像全体がピンボケである以上、画面の凡ての電線にその現象が表われている」というものであり、「第九号写真は接続前すなわち電灯線を切断したままのものとは思われない」という昭和五四年一〇月三一日付富澤鑑定補足説明書を併せ考えると、本件弓状の黒い線が接続電線である可能性も否定できない。又石原鑑定の後段の結論についても、妥当なものとして評価することができる。長谷目鑑定は、石原鑑定が指摘するように、第九号写真のように「ピンボケした画像の一部を一〇倍前後から二〇倍前後に引伸すと、粒子の荒れ方あるいは画像の荒れ方がひどくなり、又画像の輪郭の鋭さが急激に低下するため、誤認することが多い」から、ピンボケした画像を更に拡大したピンボケの不鮮明な画像に基づいてなした鑑定結果はたやすく信用することができないのである。

(ハ) 次に電灯線の補修方法に関連した証拠について検討する。西野の公判証言によれば、「店にあつた一尺ちよつとの電線を切れている線の両端に繋ぎ合せペンチで捻じて継いだ」旨供述し(第一審第二回公判)、昭和二九年七月二三日付検察官調書において「切れている線の両端と持つて行つた電灯線の両端の各端の被覆をペンチではぎ中の銅線を出して両方の先端の各線を相互にねじ合わしてつぎ合わした」旨供述しているが、ブリッジ型に補修がなされたとすると、その継ぎ方は切断された電灯線の中ほどの被覆を剥いで心線を露出させこれに接続線を巻きつける方法をとることになろう。このように、西野証言等にいういわゆる両端ねじり合わせ型補修か、原決定のいうブリッジ型補修かでは、接続部分の形状が異なるが、本件においてそのいずれであるかを知るうえで役立つと思われる証拠として、前記実況見分調書の第九号写真のほか、第一、二審において取調べられた証拠物の長さ約五〇センチメートルの電灯線一本、同電灯線の切れ端二本及び村上善美検事作成の昭和二九年七月二三日付実況見分調書がある。村上検事は、電灯線切断箇所及び修理の状況を明確にするため、昭和二九年七月二三日四国電力営業所工務課細井隆雄外一名を立会わせたうえ、三枝方屋根上の電灯線屋内引込箇所の実況見分を行い、その結果を報告したのが右の実況見分調書であり、その際修理部分を切断し茂子から任意提出を受け領置したのが右の電灯線一本である。この実況見分調書によれば、「縦に並んだ二個の碍子の距離は一〇センチメートル、その下部の横に並んだ二個の碍管のの距離は一〇センチメートル、下部の碍子と左側碍管の距離は二二センチメートルあつて赤被覆線で接続され、上部の碍子と右側碍管の距離は三二センチメートルであつてこの間長さ四二センチメートルの弓状の赤被覆線で接続され右碍子より下五センチメートルの箇所と右碍管より上一〇センチメートルの箇所で裸線の状態でねじり合わせて継いである。立会人細井隆雄は会社の工事人はこのような継ぎ合せ工事はせず明らかに素人の仕事であると申述。右二箇所の継目から上部は二センチメートル下部は三センチメートルの箇所で切断領置」との記載があり、写真三枚が添付されている。この時切断領置さられた前記電灯線一本は事件確定にともない処分され現存しないのでこれを検する術もないが、西野は第一審第三回公判で右の電灯線を示されて供述を求められ、「見覚えがありますこの事件の時私が切つた電灯線を私が繋いだ際に使用した電線です」と証言し、さらに昭和二九年七月二三日付検察官調書(二枚分)において右電線を示され「その赤い被覆のある線中、つなぎ合わしてある中の方の色の比較的鮮明な部分が私が最前述べたラジオ荷造り箱から切り取つて持つて行つて継ぎ合わした電線だと思います。それはその両端近くの線と互いにねじ合わして結んだ拾好が私が結び合わした時の物に間違いないと思われるからです」と供述し、同日付検察官調書(四枚分)において、「この継ぎ合わした後同部分を配電会社からきてもらつて修理し直してもらつた覚えはありませんから現在そのままになつていると思います」と供述している。しかしながら、右の実況見分をしたのが昭和二九年七月二三日で事件発生の昭和二八年一一月より半年以上も経過しており、その間修理し直したかどうかを確認すべき証拠が不十分であること、西野の右供述は推測で述べたもので、しかも偽証告白以前の供述であることなどを考え併せると、村上検事が実況見分をしたときには、事件後西野が電灯線を補修した時の状態がそのまま残さられていたものと認めることは困難である。

次に電灯線の切れ端二本についてみると、この証拠物は、前記櫛渕泰次の証言によれば、実況見分を手伝う以前に、西野に案内させて切り口を調べた後ペンチで切断したものであるというものであり、昭和二八年一一月五日付実況見分調書によれば、「切口を採取し」領置調書のとおり領置したというのであるから、実況見分の前、あるいはその頃切断された電灯線の切り口部分を採取したものであり、前記電灯線一本と同様事件確定により処分されてしまつているが、その形状は大久保柔彦作成昭和二九年九月一日付鑑定書によつて知ることができ、同鑑定書添付写真の最初のものに写されている二本の電灯線の切れ端のうち上段が刑第三号証の(一)で長さ約一〇センチメートル、下段が刑第三号証の(二)で長さ約六センチメートル、いずれも線径1.6ミリメートル錫鍍金ゴム被覆絶縁電線である。ブリッジ型補修を認める原決定の考えでゆけば、右の刑第三号証の(一)、(二)の資料は、ブリッジ状に補修された接続線の内側の電灯線を切り取つたものということになる。そして、この刑第三号証の切り口の状態からブリッジ型補修を裏付ける新証拠として原決定が評価する資料が富澤一行作成の昭和五四年一〇月二日付鑑定書及び同月三一日付鑑定書補足説明書である。富澤鑑定は大きく分けて二つの結論から成る。その一は、(一)刑第三号証の(一)の被覆電灯線の右側端に巻きつけてある線状のものは直径1.6乃至2.0ミリメートルの銅線であると推定する、(二)接続用被覆電灯線の接続方法は昭和二九年七月二三日付実況見分調書に記載と同様銅線部をねじり合わせたものと推定する、(三)刑第三号証の採取が接続用電灯線を接続してから後か、その前かはどちらも不可能ではない、後者の場合は接続電線のねじり合わせて接続したと考えられる、前者の場合は電灯線の被覆を除去し接続用電線の裸の先端部を巻きつけて接続したと考えられる、与えられた鑑定資料だけからその先後を断定することはできない、というものである。その二は、昭和二八年一一月五日付実況見分調書添付の第九号写真においては、上碍子と右側碍管との間の電灯線は弓状の接続用電線で接続されていて、当該部分に写つているものは影や汚れ、模様ではないと判断する、というものである。まず前者についてみると、(二)の結論は一見ブリッジ型補修を否定するかの如く見えるが、同鑑定書によると、接続用電灯線を接続してから刑三号証の(一)の電灯線を採取したとする場合、電灯線の切断部に手を加えずに電灯線の被覆を除去し、接続用電灯線の裸の先端部を巻きつけて接続し、巻きついた接続用電灯線の一部分を含めて一括して電灯線のみを切断したことが考えられると延べているからブリッジ型補修方法を否定しているとはいえない。そして原決定は、右の富澤鑑定をもとに、「切取り領置の際、接続用として巻きつけてあつた電線の一部が巻き付いた状態のままで同時に切られており、切り取り領置前に既に西野のいうブリッジ状に切断された電灯線が補修されていたことを窺うことができる」(原決定書三六六丁表)と判示し、右の線状の物体が切断時から存し接続用電線の残存であると述べている。富澤鑑定の前記(一)の結論については、同鑑定書によれば、被覆電灯線の電線(銅線)と巻きつけられた線とは同一物とは断定できないが、同等の太さの銅線と推定する、接続用電線の銅線と巻きつけてあるものとは極めて近似のものと推定する、というものである。(三)の結論は、接続と刑第三号証の採取の先後関係はどちらを先にすることも不可能ではないというものであつて、いずれも原決定の推論を裏付けることができないものではない。なお、刑第三号証の(一)に巻きつけられた線があることも事実であるから、なぜそのようなものがあるのか疑問とされてよい。富澤鑑定も、その経過の中で、巻きつけるにはペンチ等の工具を必要とし、刑第三号証の(一)の電灯線採取後にこのような加工を行うことは説明がつかないと述べているところであるが、この点に関して、事件当事現場の鑑識及び電線、匕首等証拠物の鑑定に従事した佐尾山明の昭和五四年一一月二九日付検察官に対する供述調書及び同人作成の昭和五六年八月一八日付鑑定によれば、刑第三号証の(一)の右端に巻きつけられた線は、犯人の切断した切口と採取側の切口とを混同することがないよう裸銅線を巻きつけたものであり、刑第三号証の(二)の方に巻かれていないのは、一方に巻いてあれば犯人の切断箇所がわかりそれに合致する他方の切断箇所もわかるからであると述べている。しかしながら、これを裏付ける証拠もなく、櫛渕泰次の昭和三五年四月四日付検調書によれば、刑第三号証の(一)に巻きつけられた線につき、同人が電線を切断した当時その箇所に別の線が結び付けられていたのでそこをペンチで切つた様に思うと述べて右と異なつた説明をしていることなどを考え併せると、弁護人の主張するとおり、佐尾山の供述は当時捜査に従事した者の希望的憶測に過ぎず、何ら根拠のないものである。次に切断された電灯線の心線は太さが1.6ミリメートルの銅線であるところ、西野が補修用に使用した接続線の心線も同様1.6ミリメートルであると認められる(西野清の昭和三三年一〇月一〇日付法務事務官に対する供述調書、昭和三四年九月二日付徳島検察審査会事務官に対する供述調書等)から、刑第三号証の(一)の右端に巻きつけられた線が補修に用いられた接続線の残滓であるとすると、巻きつけられた線の太さと刑第三号証の(一)の本体の心線の太さが同じになるわけであるが、富澤鑑定の結論(一)によれば巻きつけられた線の太さは1.6ないし2.0ミリメートルというのであり、当審において提出された佐尾山明の昭和五六年八月一八日付鑑定書によれば2.0ミリメートルというのである。佐尾山鑑定は、大久保柔彦作成の鑑定書添付の刑第三号証の(一)、(二)の写真を対象に心線、巻線を計測ルーペ、顕微鏡移動測徴計、顕徴鏡写真を使用して測定した結果をもとに判断したもので、これによれば線の太さは明らかに異なつているが、刑第三号証の(一)、(二)の物体自体は存在しておらず写真判定では正確に判断することは困難である。さて、富澤鑑定の前記(三)の鑑定結果は前述のとおりであり、同鑑定のもう一つの結論である昭和二八年一一月五日付実況見分調書添付の第九号写真の弓状の影に関する判断については、これを接続線と解する根拠は、写真判定と拡大写真の実測による電線の長さからの推定から成り立つ。前者については前述のとおりであり、後者について検討すると、同鑑定によれば、第九号写真に表れている碍子、碍管あるいはその双互間の既知の客観的長さと写真上の長さとの比率(係数)を求めたうえ、上部碍子及び右側碍管からそれぞれ出ている電線の切断部分(上部電線・下部電線)の長さを右の類似の係数を用いて算出すると、上部電線は約五センチメートル、下部電線は約三〇センチメートルと推定されるところ、第九号写真が刑第三号証の資料を採取する以前の写真であるとすると、右の推定される上部電線の長さからして刑第三号証の資料(六センチメートル及び一〇センチメートル)を採取することが不可能であり、他方補修後の状態をあらわした昭和二九年七月二三日付実況見分調書によれば右の上部電線と同じ長さの五センチメートルの上部電線が確認されているから、第九号写真は資料採取後の状態を示しているというのである。ところで富澤鑑定に従えば、資料採取後の上部電線は約五センチメートル、下部電線は約三〇センチメートルであるから、採取前の電線の長さは、これに刑第三号証の(一)、(二)の資料の長さ六センチメートル及び一〇センチメートルを加えた合計約五一センチメートルとなるわけであり、他方、上部碍子と右側碍管との距離は三二センチメートルであるから、切断面は三二センチメートルの間を五一センチメートルの電線による配線工事がなされていたことになり、このような配線工事は普通あり得ない(切断されなかつた下部碍子、左側碍管の間の配線の様子は昭和二九年七月二三日付実況見分調書添付写真にあらわれている。なお電気工作物規程参照)。しかしながら、電線の余長があるのは、補修のため屋内側にあつたたるみを引出したかもしれないとも考えられるし、補修をしたのは素人の西野であることなどを考えると、富澤鑑定の電線の長さの推定及び結論はあながち不合理であるともいえない。他方、昭和二九年七月二三日付実況見分調書が補修後の状態をそのままあらわしていると仮定して、切断前の電線の長さを求めてみると、上下部の電線と採取された刑第三号証の(一)、(二)の資料の長さを合わせ(5+10+6+10=31)、これに二箇所の継ぎ目部分の電線の長さ四乃至六センチメートルを加えて合計三五乃至三七センチメートルとなり、この長さであれば碍子、碍管間三二センチメートルを結ぶ配線としては適切(なお余長があるのは碍管付近での水切りのためのゆるみが必要であるため)であると考えられる。なお富澤鑑定は、一〇月二日付鑑定書において、七月二三日付実況見分調書に基づき電線の長さを算出し、一〇月三一日付鑑定書補足説明書において、第九号写真に基づき推論した電線の長さを重視し、その結果生じた下部電線の長さの相違(一〇センチメートルと三〇センチメートル)について、「二九年七月の実況見分時には電灯線の一部を碍管内すなわち屋内側に引き入れて水切りのたるみを設けたか又は長すぎる部分を切つて再加工したかのいずれかであろうと考えられる」と説明している。証拠はないが、そのように考えても不自然ではない。

(ニ) 最後に西野清のブリッジ型補修に関する偽証告白について検討する。西野は偽証告白以来、自分が電灯線、電話線を切断していないことと電灯線を早期に補修したいという点ではその供述は一貫している。しかし電灯線の補修の方法に関する供述についていえば、ブリッジ状に補修したことを具体的に述べているのは昭和三三年一〇月一〇日付法務事務官安友竹一に対する供述調書においてのみであり、その他はいずれも従前同様ペンチチによるねじり合わせ方法で補修したと証言又は供述している。その供述の経過をたどつてみると、はじめて偽証告白をした同月九日付供述調書は概括的な偽証告白であつて、電線を切断していないことを述べるにとどまり、翌日付の前記供述調書で電灯線の補修を述べているわけであるが、その後の供述内容は次のとおりである。

①昭和三四年一月二九日付法務事務官安友竹一に対する供述調書

「前に申し上げたように巡査の指示によつて切断ヶ所を別の線で継いだが巡査も見て知つている。新館の窓から四、五人の巡査らしい人が見ていた」

②同月三〇日付同供述調書

「巡査から切断ヶ所を探してみよと指示されたので屋根上に上つてみると電灯線が切断されているのを発見した。この旨巡査に告げると巡査は一緒に上り、継いでもよいというので私が切断された線を直接継ごうとすると、巡査は鑑識に必要だからそのまま継いだらいかんと叱り、私のペンチで切断ヶ所の両端をそれぞれ一〇センチメートル位切り取つた。それで私は店へ下りていつて別の線を持つて上り昨年一〇月一〇日に述べたように補修した」

右によれば、切口部分を証拠として採取した後補修したといのであつて、ブリッジ型補修とは合わないことになり、それにもかかわらず一〇月一〇日付調書のように補修したというのは矛盾していることになる。

③昭和三四年四月一二起付日弁連人権擁護特別委員会に対する供述調書

②の調書と同

④昭和三四年九月二日付検察審査会に対する供述調書

「電灯線をつなぎに屋根へ上つたのは警察官と私の二人で外に数人の者が窓より覗いていた。電灯線のつなぎ方は警察官が切断箇所を証拠にとつてしまつたので、残つた部分の端の被覆の箇所を両方ともナイフでけずりとつて線を裸にし、補修のため持つて上つた二尺位の1.6ミリメートルの電灯線の両端の部分も元の線と同様ナイフでけずりとり裸にし、それを元の線の部分にそれぞれねじりつけてつなぎ合わせた。その時茂子はまだ家にいた」

右によれば明らかにねじり合わせた型の補修の方法を述べており、この点は再度の事情聴取をした次の調書でも同様と思われる。

⑤同月二三日付同供述調書

「修理しようと思い補修に必要な電 灯線を持つて屋根の上へ上りかけたところ警官にそのままにしておけと制止された。その後警察の方で切断されていた電灯線を証拠として採取した」

⑥昭和三五年七月八日付証人尋問調書(第二次再審請求)

「(弁護人)

そしてどうした。ここが切れていますと警察の人にいつたんですか。

はい。

それから。

そのときつなぎよつたたんです。

そして怒られて。

君何か持つてあがつていたの。

ペンチを持つていました。警察の人だつたように思うんですが、どないやらこないやらいつて証拠を切つたように思うんです。それからあとでつないだように思うんです。

―中略―

(検察官)

そうすると警察官がそれをちよんぎつて証拠をとつたと。

はい。

つないだのはそのときではないんですか。

それがちよつと記憶ないんですが、もう一度あがつてつないだように思うんですが。

右は再審請求がなされてはじめて西野が裁判所においてした証言であるが、ブリッジ状補修をうかがわせるものはない。なお、この後第四次再審請求においても証人尋問がなされているが、電灯線の補修に関しては述べられていない。

⑦昭和五四年七月一九日付証人尋問調書

「(弁護人)

つなぐときどういうつなぎ方をなさつたんですか。

ペンチでねじたと思います。

電線が切れているわけでしよう。

はい。

ねじりかたといつても、いろいろありますわね。

普通こうねじるから、回したと思います。

そうすると、耳が二つ出るようなねじり方ですか、平行にしてねじるねじり方ですか、どつちですか。

平行にはしてないと思います。

ねじつたことは間違いないわけ。

ええ。

何かねじろうとして、そんなつなぎ方をしてはいけないというふうなことを言われたような記憶はありませんか。

覚えてないですけど……

大事な証拠なんだから、そのままにしておいてくれと。

それは思い出しません。

ずつとあとになつてからのことなんですけどね、法務省の人権擁護局というところの調査のときに、ブリッジ型に線を連絡して修理したというご記憶はありますか。ブリッジ型というのは、切れている線を橋渡しにして新しい線でつないだと。

そうかもしれませんけど、つないだのは確かですけど大きい線を持つてきて両方でつないでいるかもわかりません。

ねじつたような印象はあるわけですね。

そうです。

―中略―

電線をどういうふうにつないだのか。

それは今でも電線をねじつたと思つております。

電線をねじつたというのは切れておる電線どうしをねじり合わした。

別の線を持つて行つておるかもわからんです。

別の線を持つて行つてねじり合わしたかどうかは別として、どちらにしてもその電線をねじり合わしたと。

はい。

―中略―

さきほどからあなたが言つておるねじつたということですけれども、これはもし別の線を使つてつないでおるとすれば、元の線と新しい線とのつなぎ方がねじつたということになりましようか。

ええそうです。

―中略―

(検察官)

法務局の安友さんという人を知つていますね。

はい。

その人に君が書いて出したのでは橋型に、一回目の検察審査会で君が述べているのを見ると、警察が証拠に取つたので二尺くらいのものの両端を各々ねじり合わせたと言つてるんですが、君がつないだという方法も二種類言つてるから思い出してもらいたいんですが。

今記憶にあるのはねじつたことだけで、はつきり……」

右の証言によれば、全体に記憶は不鮮明であるが、補修の方法はねじり合わせ型を述べている。

このように偽証告白後の西野の電灯線の補修に関する供述全体を通じてみれば、ブリッジ型補修を述べているのは、前記昭和三三年一〇月一〇日付供述書のみであつて、ねじり合わせ型補修を述べる調書が多いといえるが、いずれの方法によつたものか記憶が不鮮明のために明らかにすることができない。事件直後の捜査官に対する供述では早期に修理したことを述べているが、その方法については何も述べていない。しかしながら、補修の方法がブリッジ型補修であるにせよ、はたまたねじり合わせ型補修であるにせよ、西野の供述は早期補修をしたという点については一貫しているのであつて、この点早期補修を認めていない第一、二審と明らかに異なるものである。

なお補修の時期(早期補修)について検討するに、原決定は、西野が電灯線を早期補修したものであると認定し、検察官は右認定は誤りであると主張する。西野が電灯線を早期に補修したとすると、坂尾安一の配電盤挿入による点灯(故障受付簿によれば午前六時二〇分)は右早期補修によつて生じたもので何等不思議はない。西野の初期の捜査段階における供述調書(昭和二八年一一月五日員、昭和二八年一一月二六日検)を初め、偽証告白後現在に至るまで電灯線を早期補修したということを一貫して供述している。事件当日午前五時二五分頃現場にかけつけた武内一孝巡査の公判証言あるいは検察官調書は警察官の了解を得て早期補修をしたという西野の供述を裏付けるものである。特に武内一孝の検調(昭和二九年七月二八日付)によれば、「斎藤医師が死体を見たり等している時に店員の西野が右死体のある私等の部屋へ電池を持つて照らしながら何回も出たり入つたりしましたが、部屋の電気のソケットはさわりませんでしたが店土間の方で天井の方やあちこちを同人も電線が切られていると思つてか探しているので、私は西野に何処が切れているのかと尋ねると判らん。今探しているが切れていたら継ないでもよいかと言うので私は暗いから継がねばいかんなあと申しました。」というのである。

もつとも徳島市警察署勤務鑑識係巡査櫛渕泰次の証言によれば、「事件当日午前六時頃自宅で非常召集をうけ、午前六時三〇分頃現場に行つて現場で指絞の検出を始めた時、西野より電灯線が切断されているという申告をうけ、同人の案内で電灯線の切断箇所を現認して電灯線切口を切断領置し、西野に後を修理しておけといつて下りた」というのである。午前六時三〇分頃となると坂尾による点灯後という疑いがでてくる。しかしながら、同人のいう「六明頃」「六時三〇分頃」というのは「六時」「六時三〇分」を意味するものではなく、「六時前」又は「六時三〇分前」を含んだ大体の時刻をさしていつたもので、正確な時計によるものではない。同徳島市警鑑識係の村上巡査の証言によれば午前五時三〇分頃非常召集をうけ、六時頃現場に到着したといつている。午前五時四五分頃現場にかけつけた徳島市警鑑識主任西本巡査部長は同日午前五時三〇分頃長尾刑事に非常召集を依頼したと供述(昭和二九年七月二八日検調)している。櫛渕巡査は現場に到着したときは「暗かつた」と証言していることなどを考え併せると、同人が到着したのは「六時三〇分」よりも早く、坂尾による点灯の前であるとも考えられる。もしそうだとすると櫛渕泰次の証言あるいは供述は早期補修を否定するものではなく、むしろ早期補修を裏付ける証拠ともなり得る。

してみると、西野が電灯線を切断したものでなく、電灯線を早期補修したものであるという原決定は不当ではない。

四 匕首について(同補充書第二の四)

第一、二審判決によれば、事件直後阿部守良が発見した三枝方新館風呂場焚口付近の壁に立てかけてあつた匕首は、茂子が暴力団篠原組から入手したものであり、茂子は右匕首を西野に渡して電線を切るよう命じ、西野が右匕首で電話線を切断したのち同人からこの匕首を受取り、外部犯人を偽装するため壁に立てかけたというものであるが、茂子が右匕首を入手した経路として判示する内容は、(一)佐野辰夫は昭和二七年ころ辻本義武に頼み日本刀を加工して匕首を作つた(二)右佐野は昭和二八年三、四月ころヒロポンを手に入れるため右匕首を児玉フジ子に渡して篠原組へ持つて行かせ、フジ子は右匕首を篠原澄子に渡し、澄子はこれを組長の妻で実姉の篠原イクエに渡し、佐野はヒロポンを入手した(三)阿部守良は昭和二八年一〇月下旬茂子に頼まれ篠原方へ行き、澄子より右匕首を受取り茂子に渡した(四)二、三日後阿部は茂子の求めでダイヤル糸を渡し右匕首の柄に巻いた、というものである。

原決定は、佐野辰夫が本件匕首を篠原組に持ち込んだことは間違いないとしても、匕首が茂子の手に渡つた事実を立証する証拠としては結局阿部証言と阿部が持ち帰つた匕首を見たという西野証言並びに篠原澄子の捜査段階における供述であるところ、澄子の供述は変遷動揺が多く、しかも同人は第一、二審において阿部に対する匕首の授受を否定していること、阿部の供述は授受の状況について澄子の供述と大きく食い違つており、柄に巻いた糸がダイヤル糸であるという点が事実に反し、阿部は後に偽証告白をしていることなどからみて、第一、二審判決認定の根拠となつた澄子、阿部らの供述は信用性がないというのである。

これに対し検察官の所論は、原決定の判断は単なる旧証拠の評価換えにすぎず、判決裁判所の心証に合理的根拠なくみだりに介入しこれを否定した恣意的判断であると主張する。

そこでこれらの証拠について検討することとする。

(一)  篠原澄子の供述の信憑性

第一、二審判決において証拠となつた篠原澄子の捜査段階の供述調書は、昭和二九年八月二三日付検察官調書二通及び同月二五日付証人尋問調書である。各調書の内容は原決定がほぼ全文を引用しているが、八月二三日付検察官調書(七丁分)においては、児玉フジ子から匕首を担保にヒロポンを求められ、匕首を受取りこれを篠原イクエに取り次ぎ、ヒロポンをフジ子に渡したこと、少年がきてこの間頼んであるもの判りますかといつてきたのでイクエに聞くと鍵を渡され抽斗にあつたハトロン紙包みの匕首を少年に渡した旨供述し、同日付同調書(五丁分)においては、言い残したり間違つている点があるので更に詳しく申し上げるとの書出しで、兄の矢野清次から三枝ラジオ店の若衆がきたら匕首を渡してくれと頼まれていたところ一週間位の後少年がきて三枝方から匕首を取りにきたのでイクエに鍵を借り抽斗のハトロン紙包みの匕首を渡したこと、少年は透視鏡で見せて貰つて阿部という店員に間違いない旨供述している。証人尋問調書においては、検察官調書(五丁分)に沿つてさらにその前後の状況を詳しく述べるほか、昭和二九年三月徳島簡易裁判所で証人尋問を受けた際匕首を川口算男に渡したと述べたのはその当時川口がいないのにいると思い違いして述べたもので間違いである旨述べている。

ところが澄子は、第一、二審の証人尋問において、これらの供述を全面的に覆えし、本件匕首は見たこともなく全く知らない、児玉フジ子から受取つたことも阿部に渡したこともないと証言している。

右によれば、澄子の同日付の二通の検察官調書では、後の調書で、匕首を阿部に渡すにつき矢野清次に頼まれていたとの点が加わつていることは事実であるが、匕首の現実の流れが児玉フジ子→澄子→イクエ→澄子→阿部との線であることには変りはなく、阿部に渡す前段階で矢野清次に頼まれていたことが加わつている。澄子に対する取調べの状況については、第一次偽証被疑事件の捜査の段階で、本件の捜査に従事した村上善美検事によつて作成された「富士茂子に対する擬装殺人被疑事件捜査の経過」と題する報告書において述べられており、これによれば、阿部が述べたという匕首を受取つた相手の女性を特定した経緯、妊娠中の澄子を呼び出して取調べ阿部と対質させ供述を得たこと、同女が一旦帰宅したのち再び出頭し供述の訂正を申し立て訂正調書を作成したこと、イクエが組員数名を連れて乗り込んできたが澄子や阿部に会わせたところ納得し謝罪して帰つたこと、翌日篠原組へ赴きイクエを通じて澄子に供述の間違いないことを確認し匕首を入れてあつたという抽斗等を見せてもらつたこと等が詳細に述べられているところである。他方、匕首に関与したことを全く否定する澄子の第一、二審の証言についてみれば、捜査段階の前記供述は間違いだと述べ、「私は知らんと言つたのですが、阿部が間違いないというので、検事さんに強く追及され渡したと言つた」「その時私はお腹が大きかつたので、体が苦しかつたため、渡していないのに、仕方なしに渡したといつた」「夜の九時、一〇時まで調べられ、私も当時はお腹が大きく苦しかつたので、暫く休んだのち、仕方なく渡したように答えた」と述べている。右匕首が児玉フジ子から澄子に手渡され代わりにヒロポンが澄子からフジ子へ手渡された事実は、フジ子が第一審において証言するところであり(フジ子は西野らの偽証告白も右証言を維持している)、澄子自身匕首の流れについて捜査が行われていた昭和二九年三月ころの取調べにおいては既に右の事実を認めていたことであるが、澄子は第一、二審の公判において、阿部に匕首を渡したことはない旨明白に否定し、捜査段階において何故間違つた供述をするに至つたかについて前記のとおりその理由を明らかにしていること、匕首受渡しの際の阿部と澄子のやりとりは大きくくいちがつていること、しかも阿部はその後偽証告白をしていることなどを併せ考えると、澄子の捜査段階の供述には疑問があるといわねばならない。

(二) 阿部供述の信憑性について

阿部は昭和二九年八月一一日逮補され、同月二一日の取調べではじめて匕首のことに触れ、森会ヘアンマ観を届けた際若い男から新聞紙に包んだ匕首を渡され茂子に届けるよう頼まれ持ち帰つた旨供述し、翌二二日の取調べでは、森会から持ち帰つたというのは嘘で茂子に頼まれ森会ヘアンマ機を届けた後篠原組へ行き女の人からハトロン紙に包んだものを受け取り茂子に渡した旨供述し、八月二四日施行の証人尋問及び第一、二審における証言も同様である。

原決定は阿部が八月二一日まで匕首入手の事実を隠しておく必要も、又わざわざ森会から受取つたと虚偽を述べる必要もないから、真実そのような体験が存在しなかつたからではないかと疑う合理的な理由があると判示する。この点について阿部が取調べや証人尋問においてその理由を尋ねられた際茂子から口止めされていたと述べている。

しかしながら、阿部は、預つて来た物が匕首であることは、後に台所の棚の上に放置してあつたハトロン紙包みを開いてはじめて知つたというのであり、澄子の供述とは大きく食い違つている上に、匕首受渡しの際の阿部と澄子のやりとりも両者で大きく食い違つている。さらに、証拠を検討すると、阿部の第一審第七回公判の証言によれば、阿部は匕首を取りに行く一週間前に、三枝方に見たことのない若い男が来て茂子と話しており、茂子が阿部を指して「この子供をやるから」といつていた、そのような事があつて阿部は篠原方へ行つたと述べている。又阿部の第一審第一二回の証言によれば、見たことのない若い男が来た時奥さんが私を指して「この人をやるから」といつた、一週間位して匕首をとりに行かされたので後になつて考えるとこの人をやるといつたのは匕首をとりに行くことであつたかと考えた旨述べている。しかしながらこの男が誰であるか明確にされていない。もし篠原組の者であれば明確にすることができた筈であるから、この男というのは架空の人物であり、匕首受取りを理由づける虚構の物語ではないかとの疑を起こさせるものである。当初森会から匕首を受取つたと虚偽の供述をしたこと、後日偽証告白していることなどを以上の事実に併せて考えると、この点に関する阿部の証言は措置しがたいといわざるをえない。

次に、匕首に巻かれた糸がラジオのダイヤル糸でないのにダイヤル糸であるという阿部供述は客観的事実に反すると原決定が指摘する点及び阿部の供述を採り入れながらダイヤル糸と覚しきものを渡した旨認定する第二審判決は一審の認定のすりかえであると原決定が批難する点についてみると、なるほど匕首に巻かれた糸の性質については、第二審において、弁護人から阿部の供述の信用性に関連して主張がなされ、これに対して第二審判決が阿部の供述を詳細引用しつつ他の証拠と比較対照し検討を加えているところであるが、本件の糸に関して重要なことは、その糸がダイヤル糸であつたか否かという糸の性質論のみではなく、阿部が述べる茂子に頼まれて入手したという匕首と現場に遺留された匕首との同一性の検討を通じての阿部供述の信用性の有無である。阿部の供述は、現場に遺留され証拠物として現に存在する匕首及び糸を示され、その糸をどのようにして準備したかを述べるのであつて、仮に糸の性質に対する阿部の認識が客観的事実と異なつていても、そのことから直ちに阿部の供述の信用性が否定されるわけではない。第二審判決が「以上のような資料からすれば右糸はダイヤル糸としては常用しないと断定してよいようであるが、その結果から遡つて阿部の供述自体を虚偽とはいえず供述の経過に鑑みると本件の糸が被告人方の道具箱にあつて被告人に手渡したこと、阿部が、ダイヤルの古い糸と思つていたということは右の資料に矛盾しない事実である」と判示するのもこのことを意味しているわけである。ところで、匕首に巻かれた糸に関する阿部の証言は、

(第一審第二回公判)

匕首の柄を巻いた糸は何の糸か

ラジオのダイヤル糸だと思います

何故そう思うのか

ラジオの修理にはその糸しか使いませんしその日奥さんからダイヤルの太い糸ないでといわれたので修理台の中から糸を探し出し店で奥さんに渡してあつたのでその糸だと思うのです

その糸は新しい糸か

新らしいものではなく擦れて黒くなつた糸です

―中略―

この糸を知つているか

刑第一号証の三糸を示す

その匕首の柄をそんな糸で巻いてありました

(同第七回公判)

証人が被告人に渡した糸は店の道具箱に入つていたのか

そうです道具箱に入つていたダイヤルの古い糸です

どんな糸であつたか

古い木綿糸のような白糸です古いラジオにはそんな糸を使つているのか

そうです

新らしいラジオにはどんな糸を使つているのか

黄色い糸を使つております

(同第一二回公判)

その後に証人に頼まれて匕首の柄に糸を巻いたのか

奥さんが何か糸はないかというのでダイヤルの古い糸を持つて行つて奥さんに渡し店の間へ帰つてラジオの修理をしていると奥さんが阿部さんもつと強く巻いてといつたので匕首を受取つて柄に糸を巻きました

そのダイヤル糸は普通ダイヤルに使つていた糸か

古いラジオに使つていました

どの位の長さの糸か

もつれていたので長さは判りませんでした

(第二審第四回公判)

その糸が被告人の家の箱か何かに入つていたラジオに使う糸だつたということも本当ですか

本当です

以上のとおり、阿部の検察官に対する供述調書における供述は、「只今見せて頂きましたこの糸は古いラジオのダイヤルにむすぶつけてある糸に非常によく似ています。三枝の店にもこの糸と同じ様なダイヤルに取付ける糸が今でもあると思います」(昭和二九年八月一四日付調書)、「一昨日御示の糸は確かに前使用していたダイヤル糸であると思います」(同月一六日付調書)、「店でラジオの修理をしている時奥さんが私にダイヤル糸の古いかたいやつはないでと申しましたので私は直ぐ修理道具を入れてある箱の中から使い古しのダイヤルの長い糸を奥さんに渡しました」(同月二二日付調書)、「修理箱の中からダイヤルの古い糸を見付け出して奥さんに渡した」(同月二八日付調書)、「その糸は先日見せて貰つた糸に間違いありません。道具箱にあつたので私はダイヤルに使つた糸と思い込んでいましたし、ラジオ店で糸を使うのはダイヤルの糸以外には使用しません」(同月三一日付調書)というものである。右の阿部の供述、証言によれば、阿部は古いラジオのダイヤル糸に使用されていたと思つている糸を茂子に渡した趣旨のことを述べていると理解されるが、他方昭和二九年九月四日付送付警察庁科学捜査研究所作成の鑑定結果によれば、「本件の糸は麻繊維であり、一般にラジオのダイヤル糸としては生糸を原料としたダイヤル絹糸を使用するのが常識的であつて、本件の糸はダイヤル絹糸とは非常に差異があるが、本件のような糸ではダイヤル糸として間に合せに使用することが或はあつたかもしれないと思われるので、ラジオのダイヤル糸として常用されていたかどうかは不明である」との記載や、ラジオ電気商後藤田真太郎の「ダイヤル糸として白い糸を使つた経験がない」という証言、三枝電機店に昭和二五年七月ころから昭和二八年一月ころまで雇われていた川村利男の「ラジオのダイヤル糸としては三味線の糸のような黄色いものを使つていた。ダイヤル糸に白い糸を使つてあるのを見たことがない。本件のような糸に見憶えがないが、そんな糸を古いラジオのダイヤルに巻いてあるのもあつたように記憶する」との不確かな記憶を述べた証言及び検察官に対する供述調書の記載、更に、検察官が繊維関係の会社、商店、電機器具メーカー等にあたり調査した厖大な調査資料(不提出記録)によれば繊維関係の会社等は本件のような糸をラジオ受信機メーカーに販売したことはなく、ラジオ受信機メーカーも本件のような糸を使用したことはないと明言していることなどを総合すると、原決定が判示するように、本件の糸がダイヤル糸として常用されていないのは勿論のこと、ダイヤル糸として使用されていないと認めてさしつかえない。してみると、阿部の本件糸に関する証言が客観的事実に反するとしてその信用性を否定する根拠となし得るものといわねばならない。

(三) 阿部幸市の証言の信憑性

阿部守良の兄である阿部幸市は、第一審第六回公判において、「昭和二八年一二月未ころ阿部守良とラジオを聞いているとラジオが亀三郎殺しの容疑者として川口という者の逮捕を報じており、その時守良が駅前の方から包丁らしいものを預つてきたことがあるといつているのを聞いた」旨証言しているところ、第二審判決は、事件直後の話であり重視せらるべきものとして右証言をもつて阿部守良の供述の信用性を裏付けるものとしているのに対し、原決定は右証言は検察官の誘導もしくは強制に迎合してなされた偽証の疑いが濃いと結論している。

阿部幸市は昭和二九年九月一日付検察官調書、同日付裁判官の証人尋問調書、同月一〇日付検察官調書で証言と同旨の供述をし、前記の証言ののち、阿部守良がはじめて茂子の義理の甥渡辺倍夫に偽証告白をした昭和三三年七月八日右渡辺に対し前記証言が偽証である旨告白し、その後の徳島地方法務局の調査においても同旨の偽証告白をしていたところ、第一次偽証被疑事件の捜査において参考人として取調べを受けるや昭和三四年四月一四日検察官調書で偽証告白を撤回しているものであるが、阿部幸市の右の偽証告白については第二次再審請求を棄却した徳島地裁決定において判断が示されており、これによれば、「阿部幸市と阿部守良の身分関係から見て、阿部守良の偽証告白に副う右告白をしたからといつて、これをもつて阿部守良の前証言の偽証の裏付けとするに充分とは云えない」として排斥されているところである。ところが、原決定は、阿部幸市が偽証告白をした事実と渡辺倍夫に対する供述調書の内容を掲げたほかはほとんど理由らしい理由を示さずに前記再審請求棄却決定と正反対の結論に達している。そこで阿部幸市の証言に実質的に検討を加えてみるに、阿部幸市は偽りの証言や供述をした理由として、弟守良をいつになつても帰してくれないし、自分も度々呼出されるので検事にいわれるとおり述べたとか、思つたとおり証言すると検事に叱られると思い調書どおりに証言したと述べるけれども、九月一〇日付調書は守良が九月六日に釈放された後の調書であり、もとより公判証言はそれよりずつと後のことであるうえ、証言内容も終始一貫していて明確で反対尋問にも動揺を示さず、検察官の尋問に際して、供述調書の内容と異なる点ははつきり訂正しており、弁護人の質問に対しても、検事の取調べの後松山弁護人に呼ばれ事情を聞かれて答えた状況などを具体的に述べており、これらの事情に加え、第一次偽証被疑事件の捜査で偽証告白を撤回している。しかしながら、阿部守良はその後一貫して偽証告白し、篠原組から匕首を受取つてきたという供述が虚偽である旨述べていることを考慮すると、阿部幸市の証言の信用性もしくはその証拠価値に疑問があるといわなければならない。

五 兇器である刺身包丁について

(同補充書第二の五)

原決定は、第一、二審判決が本件犯行の兇器であると認定した刺身包丁は発見されておらず、右認定兇器と茂子とを結びつける証拠は、茂子の捜査段階の自白を除けば、刺身包丁を茂子に依頼され新町川に投棄したとする西野証言及び本件の後八百屋町の三枝方にあつた刺身包丁がなくなつているとする阿部証言であるところ、西野証言は信用すべきでないことが明らかであり、阿部証言も同様であるから、同人らの第一、二審証言は虚偽であるというのである。

これに対し検察官の所論は、原決定は客観的証拠の存在を看過ないし無視し、経験則に反する独自の見解を前提として旧証拠の評価換えをしたものであつて不当であると主張する。

そこで検討すると、原決定が西野供述の信憑性を否定する理由として挙げるのは、(一)刺身包丁の点を長期にわたつて秘匿する合理的な理由も必要もなく、むしろ匕首に人血の付着を認め得ないとの鑑定結果等捜査の進展度からみて兇器は匕首でなく他の鋭利な片刃の刃物であるとする捜査側からの誘導もしくは強制によりなされた疑いが濃い、(二)新聞紙に包んだ刺身包丁を寝巻きのふところへ入れて運んだという西野供述どおりならば、通常寝巻の胸あるいは衿付近に血液が付着するものと考えられるが、昭和二八年一二月一七日付三村卓作成の鑑定書にはその記載がない、(三)刺身包丁の落ち方が西野供述と第二審の検証結果と矛盾する、(四)西野が捨てたと指示する場所を川ざらいしても刺身包丁は発見されなかつた、(五)三枝方には押収された二本の刺身包丁以外に刺身包丁があつたことを認めるに足りる証拠はないというものである。

まず右の(一)の点についてみると、西野が茂子に頼まれ刺身包丁を新町川に投棄したことをはじめて述べたのは昭和二九年八月一八日付検察官調書においてであり、同人は同年七月二一日逮捕の直前電線の切断を供述して以来一か月近くも刺身包丁の件を秘匿していたわけであるが、その理由を西野自身八月一八日付検察官調書において「どうしてこの事を隠していたかというと、こんな事まで言わなくても事件は解決がつくと思つていたし、又こんな事を言うと私がいよいよ共犯者の様に疑われて罪が深くなると思つていたからである」と述べている。刺身包丁を投棄する事実も罪証隠滅の罪に該当する行為であるから、犯罪者は自己に不利な事実を一度に全部述べてしまうとは限らないのであつて、西野が電線切断という罪証隠滅に加担する行為を述べた以上刺身包丁の投棄という同様の自己に不利になる事実を隠す必要も理由もないとはいえない。しかしながら、証拠によれば、西野は連日厳しい取調べ追及を受けたのち、昭和二九年七月二一日逮捕勾留され、少年としては、非行事実に比し全く異常な長期間身柄を拘束されていたこと、西野がその後偽証告白していること等を併せ考えると、八月一八日にはじめて西野の兇器投棄の供述が出て来たことはやはり不自然の感を免れない。又、匕首の人血の付着の有無については、昭和二九年五月三日徳島市警察より徳島地検宛送致を受けた川口算男に対する強盗殺人被疑事件記録中の昭和二八年一二月三日付佐尾山明作成の鑑定書(第一審第三回公判取調済)により「刀身に人の血痕付着するが、付着量少くて血液型検出は困難である」との結果を得たが、その後同年七月一三日警察庁科学捜査研究所へ同様の鑑定嘱託がなされ、同年八月一四日付富田功一外一名作成の鑑定書が提出され「匕首には一応血痕と疑わしいものが附着しているようであるが、血液とは断言できない。血液と疑わしいものの付着している部分について人血の付着確認は証明できない」との鑑定結果を知り、他に兇器、しかも茂子の利用し得る兇器が他に存在するという方向で捜査が進展していたと推定(村上検事報告書)することができ、この時期に西野、阿部の兇器に関する供述がはじめてなされていることを考えると、この富田鑑定書によつて捜査が相当影響を受けたと考えることができ、西野の供述は捜査側からの誘導等によりなされた迎合的供述の疑があるといわねばならない。

(二)の点については、西野の証言によれば、最初包んだ新聞紙の端から切れ物の先のようなものがちよつと出ているのが見えた、新聞紙が湿つている感じはなかつたと述べ、その後、湿つている感じがあつたかどうかはつきり憶えていないともいつている。これによれば、血液の付着の有無は不明であるが、他方西野の昭和二九年八月一八日付検察官調書では、新聞紙も何かべとべとしたものがついていたのを感じた、それが血であるかどうかわからないが血であろうと思つたとの記載がある。そうだとすると、西野の寝巻きの胸あるいは衿付近に相当量の血液が付着するのが通常であると考えられるが、昭和二八年一二月一七日付三村鑑定書によると、寝巻き上の血痕付着状況を示した図面には西野が新聞紙に包んだ包丁をふところに入れた場合に接触する可能性のある寝巻きの右胸部付近に極めて微量の血痕の斑痕の付着を印した記載がある外は寝巻の表側前裾付近に血液が若干量付着するのみである。しかも「寝巻付着の血液型はA型と認められる」と記載されており、O型の血液であるとの証拠はない。西野の偽証告白を併せて考えると、この点に関する西野の証言には疑問があるといわねばならない。

(三)の点については、新聞紙と中の刺身包丁の落ち方は、包み方その他種々の条件によつて左右されるので、一度の検証の結果で包み紙と中味が分離しなかつたからといつて、常に包み紙と中味が分離しないとはいえないとしても第二審の検証の結果によれば、包丁は「新聞紙に包まれたまま落下した」のであつて、これに西野がその後偽証告白している事を併せ考えると、右西野証言は極めて疑問であるといわねばならない。

次に(四)の点については、検察官は、西野が両国橋から新町川に投棄したと述べる兇器の刺身包丁が川ざらえによつても発見されなかつた事実があるとしても、川の現況、歳月の経過、流れの状態等から、探せば必ず発見されるというわけでもないから、刺身包丁不発見の事実から直ちに刺身包丁投棄の事実を否定し得ないと主張する。第一審第九回公判証人大柳忠夫の証言及び第二審の検証の結果によれば、西野が刺身包丁を投げ捨てたという両国橋は全長約六〇メートルで、橋下付近の水深は一番深いところで干潮時一メートル位、満潮時2.5メートル位、川底は沼地で軟かく塵埃が堆積し物を突込むと五寸乃至一寸位は入り込み、川水は海水に近いこと、潜水業を営む大柳忠夫は、徳島地検の依頼で昭和二九年八月二六日から三〇日までの五日間潜水夫一名をして橋の上下流名約二〇メートルの範囲を捜索に従事させ、最初は一〇メートル間隔で川底を探したが川の中が暗くて中がみえず二日位で中止し、三日目からは漁業に使うマンガンという物で下流に向けて漕ぎ、最後の一日は最大干潮時を選んでゼリーという物で川底を引掻いて探したが結局包丁は発見できなかつたこと、右大柳は十数年にわたる経験から、一〇か月も前に刺身包丁を投込んだとしたら同じ所にはないと思う、軽いものであるので船のスクリユーの回転によつても移動するし、干満の水の動きによつても移動する、投込まれた当初であれば発見できる可能性は半々位であるが当時の状況であれば移動と品物の腐蝕ということもあり条件が悪く可能性は非常に少ないと考える、一〇か月もすると埋まることも考えられるがその前に移動するのではないかと思う、一〇か月も経つているので広範囲に捜しても無駄ではないかと思うと川ざらえをした際の感想を述べていることが認められ、これら包丁投棄時と捜索時との日月の経過、新町川の状況、包丁の性状、捜索に費した労力、期間、その方法等捜索の規模、経験ある潜水業者の意見等にかんがみると、川を捜索しても刺身包丁が発見されない可能性もあつたと考えることができる。すなわち、投棄したが発見されなかつたという場合もあり得るのである。しかしながら、他面、発見されなかつたのは投棄した事実がないのではないかという疑いが出るわけである。殊に西野が偽証告白をしている事を考えると、その疑いはますます濃厚である。包丁不発見という事実をもつて西野の投棄の事実を否定することも肯定することもできないが、包丁を投棄したという西野の証言にはこれを裏付けるものがなく同人の偽証告白を併せて考えると、同証言には疑問があるといわねばならない。第一審判決が「このこと(包丁不発見の事実)は特に右認定の妨げとはならない」と判示し、第二審判決が「発見の能否は別個の問題で右のごとく発見できなかつたからといつて直ちに投棄の事実を否定し得ない」と判示し、確固たる裏付けの証拠もなく、兇器不発見の事実にもかかわらず、兇器を投棄した旨の西野の証言を信用し、兇器投棄の事実の認定に供したのは、原決定がいうように第一、二審の事実の認定方法は供述証拠と客観的証拠との関係を逆転させ採証法則上の初歩的原則を無視するものとか、西野証言の信憑性を過信する余り、事実認定の基本原則を軽視した疑いが濃厚であるというのも結論において首肯することができるところである。

最後に(五)の点についてみると、第二審判決によると茂子の亀三郎殺害に用いた刺身包丁が三枝方台所の棚の上にあつたと認定している。ところが刺身包丁が二本、証拠品として押収されているから、この二本の刺身包丁の外に、事件当時三枝方に、犯行に使用された刺身包丁一本が存在しなければならないが、阿部の証言以外にこれを認めるに足る証拠は存在しないのである。仮に右の包丁が台所の棚の上にあつたとしても果してそれが犯行に使用されたものと同一の物であるか確認し得る証拠もないのである。刺身包丁一本が紛失しているのに気付いた旨の阿部の証言もこれを裏付ける証拠もなく、しかも同人は後日その事実を否定しているのであるから、阿部の右証言をたやすく信用することはできない。してみると、この点に関する原決定は結局相当であるといわねばならない。

六 懐中電灯について(同補充書第二の六)

第一、二審判決によれば、犯行現場である四畳半の間に存在した懐中電灯(刑第二号証)は従前から茂子方にあつたもので茂子が現場に来合せた警察官に対し犯人が遺留したものとして提出したのは茂子の偽装工作であると認定されている。そして、判決挙示する証拠中右の懐中電灯が茂子方のものであることを証するものに、茂子の昭和二九年八月二七日付検察官調書の「この電池は日時の点は覚えませんが、主人を殺す大分前頃私方に来た客がほつて帰つた電池のうち真中の長い棒に頭と尻を他の部分品をもつて取付けた電池である」旨の供述がある(西野や阿部の証言は、三枝方では主人の亀三郎が寝る時停電に備えて枕元に懐中電灯を置いたことや三枝方では客が買いにきて置いて帰る古いのを組合せて使用していたことを述べるもので、本件の懐中電灯がそうであるとまでは述べていない)。原決定は、徳島市警が行つた本件懐中電灯の出所、経緯に関する捜査の結果によれば、昭和二九年五月末の段階において本件懐中電灯は楠藤電気器具店→長岡武夫→渡辺文雄→渡辺明→宮本春夫と渡り、本件犯行の前日の時点で最終所持人が宮本春夫であることが突きとめられており、本件懐中電灯は宮本春夫あるいは同人より受取つた他の何者かによつて三枝方四畳半の間に持ち込まれ遺留された疑いが濃厚であると判示し、さらに新たに検察官により提出された徳島大学助教授稲田貞俊作成の昭和二八年一二月二四日付鑑定書は鑑定対象物件が特定されてなく本件懐中電灯が三枝方の物である旨認め得る証明力を具備していないと判示している。これに対する検察官の所論は、宮本春夫に渡つたとされる懐中電灯と本件懐中電灯の同一性に関する関係人の供述調書には信用性がなく、このような捜査過程で作成された書類の存在から本件懐中電灯が外部犯人の遺留品であると推定するのは誤つている、稲田鑑定によつて本件懐中電灯の後部金具と三枝方で押収された他の懐中電灯の胴体が過去一体となつて使用されていたこと、すなわち茂子が犯人遺留物として提出した本件懐中電灯は茂子方で使用されていた物であることが明らかになつたと主張する。

(一)そこでまず、稲田鑑定について検討する。稲田鑑定は昭和二八年一二月一〇日付徳島市警察松島治男名義の鑑定嘱託に対応するもので、鑑定書は同月二四日付で作成されていたが、徳島市警の受領がないまま同鑑定人の手元に保管されていたところ、昭和三三年八月佐尾山明技官が別事件で鑑定人のもとに出向いた際発見し、昭和三四年五月徳島東警察署を経由して徳島地検宛送付されたものである。稲田鑑定は、懐中電灯(探険灯)胴体と同後部金具が過去一体となつて使用されていたか否かを各器具の表面傷痕を照合して判断したものであるが、同鑑定書によれば、鑑定の対象とされた物件は、探険灯胴体七個(B・C・D・E・F・G・H)、探険灯後部金具四個(A・I・J・K)と記載され(この個数及び符号は鑑定嘱託書の記載と同じである。)鑑定結果は、胴体Cと後部金具A、胴体Dと後部金具J、胴体Fと後部金具Iがそれぞれ過去一体となつて使用されたことがあるとされている。これら鑑定物件の出所については、村上清一の昭和三四年五月八日付検察官調書(一偽4)、昭和五三年五月八日付検察官調書(原請求審)、佐尾山明の原請求審における証言、稲田貞俊の昭和五六年五月二七日付検察官調書(当審)、古電池ケース五個を三枝登志子から領置したとする昭和二九年九月一一日付収家手続調書(不3)等により、これらが三枝方に存在していたものであり本件懐中電灯もそれに含まれていることが認められるが、問題は本件懐中電灯が鑑定物件のどれに該当するかである。この点検察官は、「今次再審請求審で検察官が提出した検察庁でなお保管中であつた電池ケース四個(胴体五個、後部金具三個―当庁昭和五五年押第一四三号の九)の胴体にはD、E、F、G、H、後部金具にはI、J、Kの符号が付されているので、第一、二審で本件懐中電灯として証拠調べされた刑第二号証(廃棄処分として焼却された後の形骸だけが現存している―当庁昭和五五年押第一四三号の七)は鑑定物件のA、B、Cのうちいずれかの組合せになる。そして、鑑定書第一項によれば胴体Bと結合して渡された金具はデラックス製品であるとされているところ、後部金具I、J、Kにはデラックス製品はなく、他方本件懐中電灯の後部金具がデラックス製品であることは明らかである(堤藤子の第一審第九回公判証言、昭和二八年一一月付徳島市警察署作成の「重要遺留品手配」と題する書面(松山2)、刑第二号証の残存形状)から、本件懐中電灯の後部金具がAでこれと結合された胴体がBであること、すなわち本件懐中電灯はAとBとを組合わせたものである。従つて、稲田鑑定は本件懐中電灯の後部金具Aと三枝方の他の胴体Cが過去一体となつて使用されていたことを明らかにしている」という。しかも、稲田鑑定の前記昭和五六年五月二七日付検察官調書によれば、同鑑定人は、正式の鑑定嘱託のあつた昭和二八年一二月一〇日より前ころ警察官がきて現場にあつたという胴体と後部金具が結合された懐中電灯一個を持参し後部金具と胴体の傷が一致するかどうかみてくれるよういわれ、一見して異なる製品を組み合わせたものと思われたので警察官に現場に胴体と後部金具があれば持つてくるよう指示するとともに右の懐中電灯の後部金具にA、胴体にBと番号をつけたこと、すると即日か二、三日の間に警察官が胴体六個と後部金具三個を持参したので、胴体六個にC、D、E、F、G、H、後部金具三個にI、J、Kと番号をつけたこと、鑑定書中の胴体Bと結合された後部金具というのはみなAのことであり、Bと結合しているのはAとわかりきつていたため省略した表現になつた旨述べており、さらに昭和二八年一二月一二日付鑑定処分許可状には対象物件として探険灯の胴体二個、同後部金具一個と記載されていて、あたかもA、B、Cに対応するかのような印象を与えることを考えると、検察官の主張は理由があるかのようである。しかしながら稲田鑑定をそのように理解するには次のような困難な事情が存する。すなわち、まず、鑑定書第一項には「後部金具I、A、Jはユアサ製品であると記載されているが、本件懐中電灯の後部金具がデラックス製品であることが検察官指摘の各証拠によつて認められるところ、右のデラックス製品は松下電気製であることが前記重要遺留品手配書の「二特徴A品名(DELUXE)松下電気製」との記載及び前記堤藤子の証言によつてうかがえることができ、そうすると後部金具Aが本件懐中電灯の後部金具であるとはいえないことになる。次に、鑑定書では、全五項のうち第一項ないし第四項において、「胴体Bと結合している後部金具」という記載が一か所ずつ合計四回できていて、しかも第四項には「胴体Bと結合している後部金具はデラックス製品である」と記載されているのであるから、後部金具Aとは別の後部金具であることが明らかであり、とくに第三項中の「胴体B」と金具Aとの確実なる合致傷痕は見られなかつた」との記載とその次の「胴体Bと結合して居る金具は全然傷痕が一致しない」との記載を比較対照してみると、内容的に異なつたことを表現しているものと読むことができ、稲田鑑定人のいうように同じことを異なつた面から表現したとは考え難い。このようにみると、本件懐中電灯として胴体Bと結合していた後部金具はAではなく鑑定物件として符号の付されていない物件であり本件遺留懐中電灯の後部金具と考えられる。ところで、符号Aとつけられた後部金具は佐尾山明の日記帳写(原請求審で提出)中昭和三四年五月八日欄の「三枝事件の電池の胴体と西野が灰皿にしていたキャップの傷の鑑定書を稲田教授の所へ受取りに行き」と記載してある西野が灰皿としたキャップと考えられ、又それが昭和二八年一一月二八日懐中電灯の胴体一個とともに領置された懐中電灯の後部金具一個(松山2)と考えられるのであり、さらにこのことから鑑定処分許可状記載の胴体二個と後部金具一個というのは昭和二八年一一月五日領置の本件懐中電灯と同月二八日領置の前記胴体と後部金具各一個であると考えることができる。鑑定物件の後部金具四個(A、I、J、K)、胴体六個(C、D、E、F、G)が三枝方に前から残存していたものであるとすると、本件遺留懐中電灯(胴体B及びそれと結合している後部金具)の一部分と三枝方に残存した一部分とが過去に一体をなして使用されていたことを証明することはできないわけである。

してみると、稲田鑑定書はその鑑定対象物件が特定されているとは認めがたく、本件懐中電灯が三枝方の物である旨認め得る証明力があるとはいいがたいとした原決定の判断は正当である。

(二)次に徳島市警による本件懐中電灯の出所、経緯に関する捜査の資料についてみると、原決定が挙げる各供述調書はいずれも捜査の過程で収集された警察官に対する供述調書であつて、調書の内容を検討しても、類似物件の多い懐中電灯の同一性に関する供述には検察官も指摘するように種々問題点が多く、とくに長岡が購入した時期は本件犯行の三か月位前で懐中電灯は比較的新らしいはずであるのに、本件懐中電灯は前記重要遺留品手配書の特徴欄の記載によればかなり古いものであること、本件懐中電灯は使用時期の異なる物を組合せた物であるがこのようなものを電気店で購入したとは通常考え難い(なお、長岡武夫の購入先の楠藤電気器具店の楠藤博子の昭和五六年三月三〇日付検察官調書によれば組み合せた懐中電灯を売つたことはないという)ことを考えると、これらの供述調書はたやすく措信することができず、明白性を有すべきほどの証拠価値を認め難い。

七 茂子の供述について(同補充書第二の七)

原決定は、茂子の供述は犯行を自供した昭和二九年八月二六日付及び同月二七日付各検察官調書を除き事件直後から判決確定後に至るまで無実の主張でほぼ一貫しており、これと異なる右二通の自由調書の真実性、信用性が問題とされざるを得ないとし、小林宏志鑑定等に徴すると亀三郎の創傷の刺入方向、部位等が自白と符合しないこと、茂子の受傷の程度、手掌面に創傷のないことも自白と符号しないこと、茂子の寝巻に亀三郎の血液の付着が少ないこと、自白の内容に経験則上首肯し難いものがあり、自白の形成過程に動機に関する供述がなく捜査官の想定の押し付けが歴然としており、自白はすぐ取消されていること等を総合すると、茂子の自白には任意性に疑いがあり真実性はないと判示している。

これに対し検察官の所論は、原決定は単に他の事実を推定し得る可能性や見解があり得るとする程度に過ぎず従来からその主張がなされ類似証拠の提出もあつて到底明白性を認め難い新証拠を不当に高く評価し、実質的には従来の累次にわたる請求審において既に解決されている同一の問題についてことさらに独自の見解を示し、しかも本件捜査に対する予断と偏見に基づく見解で茂子の自白調書の任意性、真実性を否定し、第一、二審裁判所の心証に不当に介入してその判断を完全に否定したもので不当というを免れないというのである。

茂子の事件直後の供述から被疑者としての供述、さらに公判段階を経て判決確定後に至るまでの供述については、原決定がその内容を詳細掲げているとおりであり、茂子は被疑者として勾留中作成された昭和二九年八月二六日付、同月二七日付各検察官調書でした自白を除いて犯行を一貫して否認して自己の無実を主張し、判決確定後も獄中で、あるいは仮出獄後も、更に再審請求の審理の過程でも一貫して無実を訴え続けている。

ところが、茂子の右自白の真実性、任意性については第一審以来争われ慎重な審理が遂げられた末、第一審判決は理由を付して右自白の任意性、真実性を肯定し、第二審判決も同旨の判断を示している。更に第四次再審請求においては、上野正吉作成の鑑定書が新証拠として提出され亀三郎の創傷や茂子の受傷が茂子の自白内容と照応するか否かについて主張がなされ、主張は容れられず再審請求は棄却された(昭和四五年七月二〇日棄却決定、昭和四八年五月一一日抗告棄却決定、同年九月一八日特別抗告棄却決定)。

今次再審請求において、右の問題に関連して、新証拠として、広島大学医学部法医学教室教授小林宏志作成の昭和五二年一〇月六日付鑑定書、同昭和五三年一月九日付、同月三一日付、同年一〇月五日付各意見書、大阪市立大学医学部法医学教室教授助川義寛作成の昭和五三年一〇月一二日付、昭和五四年九月三日付各鑑定書、同昭和五四年一一月五日付回答書等が提出され、原決定がこれを採り入れて自白の任意性、真実性を否定したので、その当否について以下に順次検討する。

(一)  自白と亀三郎の創傷の照応関係

茂子の自白によれば亀三郎を刺身包丁で刺した状況は、「四畳半の間で眠つていた亀三郎の掛布団をめくつてその右側に坐り、右手に持つていた刺身包丁で暗がりの中で大体腹のへんを突き刺し、続いてどこを突いたかはつきり覚えてないが二突程した。亀三郎は立上つて後ずさりに逃げていき、追つていくと今度は亀三郎が刺身包丁を奪い取ろうとして刃先をつかんで取り上げようとし互いにもじり合い、遂に包丁を取り上げられ逆に左腹を突き刺された。その後取られた包丁を奪い返し立つている亀三郎の胸や腹と思われるへんをめつたやたらに突き刺し、一番最後に亀三郎の咽喉を横から一突き刺した。そして最後に亀三郎は部屋の東側の柱こところに頭を置き足を南側に向けて倒れた」というものである。

他方、亀三郎の創傷は、死体を解剖した徳島大学教授(当時)松倉豊治作成の昭和二八年一一月一九日付鑑定書によれば、次のように記載されている。

(1)及び(2)創―下部の刺創(下部右側((1)創)より刺入し左頸静脈を大半切破して左下顎隅下方((2)創)に僅かに刺出)

(3)創―前頸最下部の刺創(左横僅か上の方に約3.6センチメートル刺入し筋肉層内に終る)

(4)創―右前胸上部の刺創(胸腔内に入り右肺門部に達する、深さ約九センチメートル、胸腔内に約二〇〇ccの出血を伴う)

(5)及び(6)創―心窩部左側((6)創)より刺入し皮下筋肉層を切つたのみで右側の(5)創に刺出

(7)創―心窩部下方の刺切創(ほとんど垂直に刺入し肝臓左葉の一部を貫通し膵臓及びその動脈を切断する。深さ約7.3センチメートル、腹腔内に約一〇〇〇ccの出血を件う)

(8)創―右上肢窩部の刺創(深さ約一センチメートル、節肉層に刺入して終る)

(9)創―右肩甲下部の刺創(2.3センチメートル刺入し筋肉層を切つて終る)

(10)創―左手の掌面における切創(創口として八個を算するが三個宛一線上のもの二組と二個の創から成る、深さ一部は骨に達し一部は皮下に達する程度)

(11)創―左手背の切創(皮下に達するのみ)

イ(5)、(6)、(7)創について

原決定は、小林鑑定等によれば(5)、(6)創は(6)→(5)への刺入であると解せられるところ、同鑑定では(一)茂子の自白のように仰向けに寝ている亀三郎をその右側に座つて(6)→(5)創を形成することは不可能である。(二)(7)創の刺入口の性状は兇器の刀背が亀三郎の左にあつたことを示しているから亀三郎の右側に座つて加害者が右手に兇器を持ち(7)創を負わせることは兇器を逆手にでも持ちかえない限り困難である。(6)→(5)創と(7)創とはかなり刺入方向が異なつており、茂子の自白にあるように寝ている亀三郎を続けざまに刺したという状況とは符号しないことが指摘されているという。

本件証拠上、(5)、(6)創が刀背を死体の前方に、刀刃を後方にして(つまり刀刃を体に向け)刺入して生じたものであること及び(7)創が刀背を死体の左方に、刀刃を右方にして刺入して生じたものであることは争いがないが、同一の機転によつて生じた(5)、(6)創の形成の順序が(5)→(6)か(6)→(5)かは必ずしも明白ではない。前記上野鑑定及び助川義寛の原審証言は(6)→(5)とし、小林鑑定(同人の原審証言を含む)、松倉豊治作成の昭和五二年八月三〇日付回答書(同人の原審証言も同じ)は(6)→(5)とするも(5)→(6)の可能性を否定せず、これと反対に川崎医科大学教授三上芳雄作成の昭和五三年八月二二日付鑑定書(及び同人の原審証言)は(5)→(6)創であるという。これらの鑑定等を検討すると概ね(6)→(5)創であると解するのが妥当であるが、(6)→(5)創の可能性もあるといえよう(なお第一、二審で提出された前記昭和二八年一一月一九日付松倉鑑定書では(6)→(5)とされている)。

さて、原決定が高く評価する小林鑑定がこれらの創傷と茂子の自白とに関し述べる見解を検討してみると、第四次再審請求において提出された上野鑑定とほぼ同一であるが、同請求に対する抗告審の決定によれば「茂子の供述にある『大体腹の辺を二突きし』とあるのを、被害者が身体を動かす余裕の全くない程短時間に連続して突いたと読まなければならないものではなく、要するに亀三郎が立上がる前に二回突いたという趣旨に解しても必ずしも不当ではない。従つて亀三郎が立上がる前に横向きから仰向けになる等身体を動かしたかもしれないし、茂子にしても亀三郎の横から足もとの方へ多少身体をずらす等幾分は移動したかもしれないのである。要するに(6)→(5)の刺創の発生と(7)の刺創の発生との間には多少の時間があり、その間に両者の体位の関係に変化を生じたとすれば右三個の刺創が生じても不思議ではなく、茂子の右供述にはさしたる不合理はない」というものである。この点は原審における松倉証言の強調するところであつて、同証言によれば「何個かの傷がある場合は加害者及び被害者の動きを考慮しなおかつ矛盾があるかどうかで判断すべきであり、本件では被害者が腹を刺されてじつとしているわけではなく右に左にあるいは上にと体の向きを変えることを前提にして考えると矛盾はない」と述べている。しかしながら、茂子の供述は「右手にもつた刺身包丁で大体腹の辺を突き刺し、続いてどこを突いたかははつきりしないが二突き程した」というものであり、相手に反撃や防禦のひまを与えず連続して突き刺したとつさの出来事を意味するものであるから、原決定が松倉証言を亀三郎の姿勢につき独自に例外的な姿勢を想定することによつて矛盾はないとするものであるというのも首肯することができる。

ロ(1)、(2)創について

原決定は、小林鑑定によれば亀三郎が立位では身長の劣る茂子は順手逆手何れでも(1)、(2)創を形成することは困難であると指摘されているところ、「刺身包丁を取り戻して、立つている夫の胸や腹と思われる辺をめつたやたらに突き刺し一番最後に主人の咽喉を横から一突き刺した」と茂子の自白と矛盾しているという。

小林鑑定は、右の指摘の意見とともに、(1)、(2)創は亀三郎が横臥位のとき上方から刺入するとか坐位のとき横から刺入すれば成傷し易いように思われるとの意見を有するものであり、松倉鑑定、三上鑑定も亀三郎が低い姿勢にある時に生じたものというのであつて、この点に関して鑑定人間に見解の相違はない。しかして第一審判決は「該創傷は亀三郎の横臥中に受けたものである」と認定し、第二審判決は「頸部創傷は亀三郎が倒れた後等低い姿勢の際に与えたものと認められる」と説示しているところである。茂子の(1)、(2)創に関する供述は前記のとおりであるが、内容は簡単であつて、立つている亀三郎をめつたやたらに突き刺した時から(1)、(2)創へ至る経過及びその際の状況は心ずしも明らかであるとはいえない。しかしながら、亀三郎の身長が一六三センチメートル、茂子の身長が約一四〇センチメートルであり、亀三郎が立位では(1)、(2)創を形成することは困難であること、前記自白に「立つている夫」の表現があるが、「倒れた主人」等の表現がないことから考えると、亀三郎の(1)、(2)創と茂子の前記自白とは矛盾しているという原決定は相当である。

ハその他の創傷について

原決定は、小林鑑定によれば亀三郎の中間期における創傷とみられる(3)、(4)、(8)、(9)の各創は刺入方向も異なり、その数からも「夫の胸や腹の辺りをめつたやたらに突き刺した」とする茂子の自白に符合しないという。

しかしこの点について第四次再審請求の抗告審の決定で述べられているように、その表現のわりに創傷の数が少ないけれども、言葉の表現の誇張不正確と解せられないこともないし、突き出した包丁が相手の身体に当らなかつたということも考えられ、又その間の相互の体位も当然変化しているから刺入方向の違いもありうる。この点三上鑑定は、犯人の供述と被害者の創傷数の不一致は常に経験するところである、「めつたやたら突き刺した」というのは言葉のあやと考えられると述べている。しかしながら、最初腹部を刺したあと残つている創傷といえば胸部の(4)創だけであり、前頸最下部の(3)創を加えたとしても、鋭利な刺身包丁で「夫の胸や腹の辺りをめつたやたらに突き刺した」とする前記自白に符号する創傷が余りにも少ないということは、単なる「言葉の表現の誇張不正確」とか「当らなかつた」とか「言葉のあや」ということで説明しきれるものではない。創傷と自白が符合しないとする原決定は首肯しうるものである。

ニ左手掌面の創傷について

原決定は、第二審判決によれば亀三郎の左手掌面の創傷は兇器を奪い取ろうとして刃物を握つたと認められる創傷とされているが、松倉鑑定はその旨断定しておらず、小林鑑定、助川証言はそれに疑問を呈しており、又亀三郎の右手掌には何らの創傷もないこと、茂子の両手掌には何らの創傷もないことからすると、兇器の奪い合いをし刺身包丁が茂子→亀三郎→茂子と移転した旨の茂子の自白とは符合しないばかりか、外部から侵入した賊からの襲撃に対して左手で防禦しようとした際生じた創傷ではないかと考える合理的な余地があるという。

ところで、松倉鑑定は、防避ないし抵抗等のため左手をもつて兇器の刃を握らんとした時に刃が引かれて生じたものとするのが適当であるというもので、奪い取ろうとして握つたと認められる創傷とはいつていないものであるが、上野鑑定は「定形的な防禦創傷で兇器の刃器を握ることによつて生じたものであることは明白である」と述べ、三上鑑定は「被害者の右手は被告人の左手を押え、左手で被告人の持つている包丁の刃先を掴んだために被害者の左手手掌面の切創が形成されたと想像することもできる」と述べているのである。これに対し小林鑑定は、これらの創は左手の手指を開いたか或はそれに近い状態で受傷したと推定されるが兇器を握つて奪い取つた(刃先を掴んだ)としては創の位置、配列、性状が合致し難いように思われるといつている(鑑定書二五頁、五四頁)。また、助川証言では、握り取ろうとするなら右利きならば創が右手にできていなくてはならない旨述べている。右利きの者でも対面している加害者の攻撃を左手で防禦し左手で刃物を掴もうとすることはあり得るにしても、奪い取るのに右手があるのに、右手で奪い取ろうとして握つた傷がなく、「左手で握つたにしては傷の位置が一致しない」(小林宏志証言)のである。

してみると、亀三郎の左手掌面創傷が「防避ないし抵抗の為」左手で防禦した際生じた創傷であるものの、「兇器を奪い取ろうとし」て「刃物を握つた」と認められる創傷だとする第二審判決には疑問があるといわねばならないから、茂子の両手掌、亀三郎の右手掌に創傷がないことを理由に、両者間で刺身包丁の奪い合いをして包丁が移転したことを述べる茂子の自白は亀三郎の両手掌面の創傷状況と符合しないとする原決定の判断は相当である。

(二)  自白と茂子の受傷との照応関係

松倉豊治作成の昭和二八年一一月一八日付検案書(第一審第一回公判取調済)によれば、松倉医師が同日茂子を検診した結果、同女の身体には、左季肋部に縦下極く僅か左に長さ約二センチメートルの創痕((い)創、上角部尖、下角部鈍)と、背部左腰上部に縦に長さ0.8センチメートルの創痕((ろ)創、上角部尖、下角部鈍)、及び左肱頭部に軽微な切創痕((は)創)があり、殆ど治癒していて各創傷は何れも鋭利な刃物により生じたものと認められると記されている。そして、右松倉検案書及び同人の第二審第五回公判証言によれば、(い)、(ろ)創は(い)から(ろ)への貫通創であるとされ、同人の原審証言、三上鑑定も同様である。これに対し、茂子の診察治療にあたつた医師蔵田和己、同伊藤弘之の第一審証言によれば、(い)、(ろ)創は別々の機会における創傷であると述べている。このように(い)、(ろ)創が貫通創か否かについては第一、二審当時相異なる証拠が存在していたわけであるが、原審で提出された小林鑑定では、貫通創であれば重要臓器の損傷があるはずであるのに茂子は比較的出血も少なく短期間で治癒しているので内臓損傷を伴つていないと考えられるとして、(い)、(ろ)創は別の機会によつて生じた創傷であり、寝巻の背部に疵がないと鑑定されているのは見落された疑いがあると述べており、原決定のいうとおり、右の小林鑑定によれば、茂子の(い)創が「賊が自分を便所の前で追い越すときに腹部にひやりとした感じがした」時の傷であるという茂子の供述内容に符合する関係にあるということができる。更に、もし自白にあるように、刺身包丁が茂子から亀三郎に、亀三郎から茂子にと激しく奪い合われたとすれば、茂子の右手には何らかの創傷が存在すべきであるのに、何らの創傷もないことを併せ考えると、茂子の自白には疑問があるといわざるを得ない。

次に、原決定は、茂子がもつていた刺身包丁を亀三郎に取り上げられ、今度は逆に亀三郎から突き刺されたにしては、亀三郎の受傷に比して茂子の受傷が余りにも軽傷であり、とくに茂子の右手掌に創傷がないことは自白の真実性に決定的とも言える疑いを投げかけるものであるというのに対し、検察官は不当であるという。

亀三郎は一旦包丁を取り上げたのであるから、茂子がもつと傷を負つても不思議はないが、加害者が受ける傷の程度は被害者の状況如何によつて左右されるもので一概にいえず、本件においては、亀三郎は既に腹部にかなり重篤な傷を受けて相当脱力していたであろうし、包丁の奪い合いで一層の出血脱力があり、ようやく茂子から包丁を取り上げ茂子を刺すことはできてもそれ以上の攻撃はできず再び茂子に包丁を取り戻されたとも思考されるので、茂子の受傷の程度が(い)、(ろ)、(は)創のみであつても格別異とするに足りないとも考えられるが、小林鑑定及び同証言によれば、亀三郎の体力が既に弱つていたとしても、相手ともじり合い、兇器を取上げる体力、気力があるとすれば、茂子にかなり重大な創傷を与えるのが当然のように推量されるとしている。この点に関する原決定の判断は相当である。

(三)  自白と茂子の寝巻に存するO型血痕について

原決定は、小林鑑定によれば、もし、茂子の自白調書のとおり犯行を実行したとするならば、亀三郎の受傷状況や四畳半の間及びその付近の血痕の付着状況からみて茂子の寝巻に亀三郎の血液が右前裾の方に少量しか付着しないということは経験則上首肯し難く、茂子の自白が真実であるなら、茂子の寝巻には少なくとも亀三郎の多量の噴出血液、亀三郎と格闘し必死で兇器を奪い合つた過程で生じる筈の袖口や衿への何らかの痕跡が残される筈であるのに佐尾山明、三村卓作成の鑑定書によるもこれらを発見することができないという。

事件時茂子が着用していた寝巻は、第一、二審において証拠物として検せられ(第一審第一回公判取調済)ていたが、事件確定に伴い廃棄処分されて現存しないため、その形状及び血痕付着状況等については国警徳島県本部鑑識課員佐尾山明、同三村卓作成の昭和二八年一二月一九日付鑑定書(第一審第二回公判取調済)によつて知るほかない。同鑑定書によれば、寝巻に付着した血液は、鑑定書添付の付図や写真に見られるように、寝巻の前面には左右上腹部付近、右足前面部分、両袖等、背面には左背部付近を中心に中央下方にかけて存在していることが認められるが、このうち血液型判定のため採取された箇所は、左上腹部分(検体一)、左袖口前面部分(同二)、背面中央下右部分(同三)、右前裾前面部分二箇所(同四及び五)であり、その血液型は大部分がA型(茂子の血液型)、検体四、五がO型(亀三郎の血液型)であると判定されている。尤も、右佐尾山らと寝巻の血痕検査に従事した鑑識課員和田福由は、第一審第一三回公判において、寝巻の右腰から約二〇センチメートルかもう少し下の部分に幅一〇センチメートル、長さ四五センチメートル位の範囲に円型及び楕円型の血液の飛沫が七〇個位付着していた、その飛沫血痕はO型であつた旨証言している(なお佐尾山の原審証言参照)がこれはいかなる根拠から判断したか不明であり、「七〇個位」のすべてについてO型という血液鑑定がなされた証拠もなく、この証言を裏付ける証拠も皆無であつて到底措信することができないものである。

ところで、寝巻に付着した血痕の有無について、右鑑定書をみるとき、血液型判定箇所が少なく不十分である(この点はとくに三上鑑定が、兇器は右利きの者なら通常右手に握られるのに、右袖口の表裏に付着する血痕を含めて右側前面部分各所に付着する血痕の血液型判定が行われていないと指摘する。)ことを認めざるを得ない。右鑑定等により明らかに認められる亀三郎の血痕の存在は寝巻の右前裾前面部分のみであつてこの飛沫状の血痕は少量であるところ、亀三郎との争闘の状況や同人の受傷の程度、現場における血液の飛散状況とくに四畳半の間の壁に貼つてある広告紙と壁に平行状に長く飛沫状血痕が付着していること、障子の内側に飛散した血痕があること等からすると、茂子の寝巻に付着した亀三郎の血痕の量が少な過ぎるのではないかと疑問を抱くのは当然である。この点については、既に第二審判決において問題とされ、弁護人の同旨の主張に対して一応の疑問を呈しつつも、頸部創傷((1)、(2)創)は静脈切破でしかも腹部創傷((7)創)のあとであるから血液の送出力は弱く、(7)創自体からも迸出力は弱いうえ寝巻の上からの創であるから一層血液の飛散が阻害されること、茂子の犯行時の位置、体位関係も血液付着に影響があること等を理由に結局血液の付着状況から茂子の犯行を否定することはできないと判示している。今回原審で提出された松倉回答書によれば、血液の飛散は、創傷の部位、損傷血管の種類及びその大きさ、所在場所の深浅の度合、創口の開度、創管の方向、被傷臓器の動きの有無等がこれを左右し、又経過進行に伴う血圧低下の影響、受傷部の被覆物の有無、程度を考えなければならず、更に受傷時の体位、身体の動き等が大きくこれを左右するので、たとえ創傷所見が明らかであつても、それのみから直ちに各創傷からの出血血液の飛散状況を軽率に云々することはできないと述べている。同じく三上鑑定は、各創傷の出血の状況を詳しく検討して付着血痕が少量であつても矛盾はないと述べ、さらに寝巻の右前裾前面部分の飛沫血痕の原因となつた刺創を推定している。しかしながら、原決定の判断の資料となつた小林鑑定の強調するとおり、もし茂子が犯行をなしたとすれば、四畳半の間で亀三郎を突き刺し、同人ともじり合い、同人に刺身包丁を奪われて突き刺され、更にこれを奪い返して同人を惨殺した犯人の寝巻にしては、茂子の血液は多量についているが、亀三郎の血液が右前裾の方に余りにも少量しか付着していないということは不合理であり、経験則上首肯しがたいものである。原決定の判断は相当である。

(四)  自白その他の問題点について

原決定は、自白にあるように亀三郎ともじり合い兇器を奪い合い危険の切迫した状況の中で佳子を起こしたことや亀三郎から咳で目覚めた私に横になつて寝たらよいと暖かい言葉をかけられた後に犯行を決意し、偽装工作をしたうえその目的を遂げたということは経験則上首肯し難いものであるという。

前段の点については、第二審判決は「被告人の供述が真実であつたとしてもそのような余裕がないとも断定はなし得ない」と説示し、第四次再審請求の抗告審決定は「不自然であることには違いないが、極度の興奮の際ありえないことではない」と説示する。しかしながら、原決定のとおり、右の事実はいずれも不自然というべく、右自白内容が経験則上首肯しがたいものであり、自白の信憑性の乏しいことを物語るものといわねばならない。

(五)  自白の形成過程、持続過程、撤回過程に見られる問題点について

原決定は、茂子の自白に動機に関する供述がないのは異常である。一〇年連れ添つた夫を殺害したというのであるから、真実自白したのであれば、どうして殺害状況について事細かに述べながら、夫殺害の経緯とその心情について述べるところがないのか不可解であるという。

もとより、否認を続けていた者が自白するときすべてを述べる場合が多いであろうがそうでない場合もある。本件においては自白調書は昭和二九年八月二六日付及び二七日付の二通のみであつてしかも二七日付の調書は犯行の状況について述べるのを拒んでおり、八月二九日付調書は再び犯行を否認している。

原決定のいうとおり、夫を殺害するというのは異常なことであり、もし茂子が判決で認定されているような動機で亀三郎を殺害したとすれば、自白は酌量すべき事情となりうる殺害と深いいきさつを述べるのが通常である。殺害の状況について事細かに述べながら、有利な事情となる動機やいきさつを述べるところがないのはやはり不可解であるといわねばならない。更に茂子は自白を撤回してからその後二十余年の間一貫して無実を訴え続けてきたことを併せ考えると、動機に関する供述のない自白に真実性を認めることには疑問があるといわねばならない。

また、原決定は、村上検事作成の「富士茂子に対する擬装殺人被疑事件捜査の経過」と題する書面(一偽1)によつて、茂子の自白は証拠に基づいたものとは言い難い同検事の想定の単純なる焼き直しであるき過ぎないことが明らかになつたという。右の報告書は村上検事が第一次偽証被疑事件の捜査の過程で高松高検の命により昭和三四年ころ作成したもので、判決確定後上級官庁に事後報告として犯人を検挙し起訴するに至つた捜査の経過を結果からの回想によつて記載したものであるが、同報告書によれば、村上検事が昭和二九年七月一〇日頃の時点で、内部犯人、特に茂子犯人像を想定していたことが明らかであり、捜査官の想定した犯人像に合致する捜査が行われ、それに相応する供述調書が次々に作成された疑いがある。

(六)  結論

以上茂子の自白に関し新証拠として提出された資料を検討し自白の内容に考察を加えたところによれば、これらの資料はいずれも自白に関する第一、二審の判断に合理的な疑いを生ぜしめるに足りる証拠価値を有するものと判断される。茂子の自白に任意性あるいは真実性に疑いがあるとする原決定の判断は相当である。

八 情況証拠として説示する諸点について(同補充書第二の八)

原決定は、第二審判決がその理由第二の一の(五)において茂子の犯行の状況の一端を示す状況証拠として、犯行現場の血痕等の付着状況、茂子の左季肋部刺傷、亀三郎の左手掌面の創傷、茂子の寝巻に存する亀三郎の血液、犯行後現場の夜具布団を逸早く取片付けてあつたこと、四畳半西北隅押入の板戸が割れその傍のポスターに血痕の付着していること等を挙げている点は、新旧証拠を総合評価した場合茂子の犯行を認定する情況証拠たり得ないという。

これに対し検察官の所論は、原決定の右の判断は単なる旧証拠の評価換えに過ぎず、新鑑定と称するものの明白性の評価を誤り極めて恣意的判断をしたものであるという。

そこで右の諸点について検討する。

(一)  犯行現場の血痕等の付着状況

第二審判決は、四畳半の間南側障子内側の西端親棧下方から約一〇五センチメートルのところに指頭を斜外に向けた形状で血液による亀三郎の左拇指紋が存し、右拇指紋は同所から下方にずり落ちた形跡を示していること、右障子の内側に飛散した亀三郎の血液が存すること、右拇指紋付着の親棧の西、縁側便所入口前に接近して敷居外側に被告人の血液による右趾紋が何れも斜外に向き、東西に接近して二ヶ所、何れも趾紋がすれて重複して残されていることを認定したうえ、和田福由の証言に基づき、右の状況から、亀三郎は右縁側敷居付近においても刺され一旦縁側に体を出し左手に障子親棧にあけていたが、そのまま同所に崩折れたと推定し得る(第一の推定)、被告人の右趾紋には前進意欲が認められず、重心は室内にある左足にかけられ、体は亀三郎の位置に重なる状態にあり、足紋の重複異動は何らか行動に出たことを示しているのでおそらく右両者の位置で茂子が亀三郎の胸部を刺したものと推定することができる(第二の推定)、引摺つた形跡は亀三郎の最後に倒れていた位置に照らし崩折れた亀三郎を茂子が室内に引摺つたか又は亀三郎自身摺るように室内に入つたことが推定される(第三の推定)として、茂子の当初の供述中犯人の侵入から逃走までの状況に表れる亀三郎、被告人の位置、行動は事実と矛盾すると判示している。

原決定はまず第一の推定に関し、小林鑑定によれば、障子の親棧に左手拇指をあて身体を支えるときは左手拇指以外の各指や手掌面も障子に触れるのが通常であり、左手拇指以外の血液指紋が検出されていないことからすると、左手拇指紋と同障子親棧の下方より一三センチメートルの高さまでの「血液により手を触れた形跡」とは連続的に印象されたものとは考え難く、従つて亀三郎が親棧をつかんだのは、兇行開始直後に一度親棧をつかみ、兇行の終り頃亀三郎が再度障子付近に来てその下方をつかんだのではないかとの推定が成り立つとされていることを根拠に、前記和田証言が一義的なものとして支持できないという。前記和田証人の推定、殊に「親棧に手を触れていた時三秒後に刺されて倒れ込んだ」という推定は、原決定のいうとおり、余りにも大胆な想像であり、根拠のないものである。従つて、和田証言に基づく第二審判決の前記推定は不合理といわねばならない。

なお、和田証言では「上から下へ手がずり落ちたような血液が点々と付いていた」旨述べているが、指紋が検出されているわけではなく、血液が点々としていたならば、むしろ親棧を握つたときに左手掌面からの出血血液が下方へ流下ないし滴下したことを推定させることとなり、手がずり下つたとか、あるいは崩折れたということにはならない。

次に第二の推定に関し、原決定は、第二審判決が採用した前記和田鑑定書及び和田証言では、板の間廊下の敷居の外側に血液による茂子の右趾紋が相接して二個重複異動して印象され(AA'及びBB'と表示)、AよりA'に至り次いでBよりB'に移動した事実により茂子が屋外へ移動の際印象された足紋でなく、茂子が何等かの行為に出でた心理状態が趾先に現われているとされているが、足紋の形状、態様から人の位置や動き、心理状態まで推定することはできないのみならず、助川鑑定、小林鑑定によればAA'は逆転紋、BB'は正像趾紋で和田鑑定の移動の順序は異なるという。

確かに、助川鑑定によれば、AA'は隆線の谷の形が現われた逆転趾紋、BB'は隆線が現われた正趾紋であり、趾紋の押捺の時間的順序はAの直後に連続してBが印象されることはなく、本件ではまずうすい血液を踏んで趾に付着してBB'を押捺し、その後多量の血液を踏んでAA'の逆転紋を押捺したと考えられ(時間的間隔を置けばAのあとにBも可能とも証言する。九六丁)、重複趾紋の順序は形態の鮮明さからみてA→A'、B'→Bと考えるのが理にかなう(この点は趾腹部に加えられた圧力や圧力の方向によつて差の生ずることもあるので決定的に主張するものではないという)と述べられ、一方小林鑑定では、両趾紋が時間的に近接して印象されたとすれば逆転紋と正趾紋との関係からBB'が先に印象されたとの推測が可能であるが、右趾への力の入れ方とか押圧の強弱によつても血液趾紋のつき方に差を生じるので、血液趾紋の血液付着量の多少のみでは印象の前後関係を区別し難いと述べており、これらの意見に徴すると、茂子の血液趾紋からその順序を確定し得ないものであり、和田鑑定は一義的であるという外はない。しかも茂子の右趾の血液趾紋と亀三郎の左拇指の障子親棧上に存する血液指紋とが同時期に印象され付着したと認めるに足る客観的証拠は存在しない。茂子の右趾紋から茂子の姿勢行動、心理状態まで推測した和田証言、和田鑑定書は、原決定のいうとおり、「まさに想像を恣意的に組み立て」たものであり、「鑑識採証学的立場からはるかに逸脱した独断的な観察方法である」といわねばならない。したがつて、和田鑑定等をもとにした第二審判決の前記推定は不合理であつて排斥せざるを得ない。

次に第三の推定について原決定は、右の推定は実況見分調書と和田証言に全面的に依拠したものでこれを裏付ける証拠はなく、かえつて助川鑑定によれば、廊下上の血液の擦過した痕跡については或る程度血液が凝固しつつある段階で擦過したもので、落下した時期と擦過した時期との間には時間的前後関係にやや差があること、擦過痕跡は重畳物を押えて圧力をかけて引つ張つた跡ではなく、従つて人体が倒れているのを引摺つた故にできたようなものではなく、着物の裾などがその上を二〇センチメートルほどの間引つぱられて擦つてなでたようなものであると述べており、前記推定は科学的合理的根拠を伴つていないという。

廊下上の血痕の擦過痕の状況を知る証拠としては、原決定指摘の実況見分調書添付の写真第一九号、第二三号、和田鑑定書添付参考写真(五)、同添付一枚目の写真及び第一審第三回公判の和田証人の「障子の親棧の処へ亀三郎が倒れ座り込んだ時に亀三郎の肩の辺をつかんで座敷の中へ引摺り込んだものと考えます。廊下の血が西南から東北に向つて飛んだようになつているのでそのように考えられる」との証言のほか、徳島市警の鑑識係員で現場を見分した村上清一の第一審第三回公判の「私の見たところでは四畳半の間の方へ向いて擦つたように見えました。それで私としては亀三郎が廊下で倒れそれを室内へ引張り込んだと見た訳です」との証言、第一審昭和二九年一二月五日施行の検証の際の「廊下中央部北寄りに箒で掃いたような血液と流下した血液が相当広範囲に付いておりました」との証言、及び第二審検証の際の「亀三郎の死体の下に引きづつた時に着くような血の筋があつたからです」との証言もあるが、現場で鑑識に従事した者二名の右証言はいずれも大胆な推測に基づくものであり、措信できず、他に前記推定を裏付けるに足るものはない。そうすると、第二審判決の前記推定は科学的合理的根拠をもたず不合理なものといわざるを得ない。

第二審判決は、右三つの推定によつて想定した事実を「客観的事実」として茂子の否認の供述と対立させ、結局茂子の右供述は右「客観的事実」に矛盾するとして排斥しているが、右推定によつては、茂子の右供述を排斥する根拠となし得ないこと原決定のとおりである。

(二)  茂子の左季肋部の受傷、亀三郎の左手掌面の創傷、茂子の寝巻に存する亀三郎の血液

右の諸点については既に検討済みである

(三)  「犯行後現場に敷いてあつた夜具蒲団を逸早く片付けてあつたこと」について

原決定は、右の点がどのような意味で情況証拠たりうるのか、また何故そのことが犯跡の隠蔽になりうるのか疑問があるうえ、「逸早く」と認め得る証拠はないという。

そこで検討するに、第二審判決が挙げる各証拠によつてもこれを認めることができない。実況見分調書、村上証言にも「逸早く」布団を片付けたと認定し得る内容は含まれていない。なお、「逸早く」という点につき、事件後現場に一番早く駆けつけた武内一孝巡査の第一審第五回公判証言によれば、医者がくる前である午前五時三〇分ころ三枝方へ着き、四畳半の間では畳の上に茂子と佳子が座つており、布団は敷いてあるような状態ではなく座敷の隅に置いてあつたと記憶するが、それがどんな状態でおいてあつたかはつきり覚えていません旨述べているが、布団につき不正確な観察とあいまいな記憶を述べているにすぎず、「逸早く」「布団をとり片づけ」たことを根拠づけるものではない。原決定が、西野が茂子の入院先の斉藤病院へ運び込んだ布団は四畳半の間に敷いてあつた茂子の布団である蓋然性が高く布団が片付けてあつても不思議でないという点も、実況見分時には敷布団の敷布二枚と上布団の掛布一枚が置いてあつたことから考えると、血痕の付着した敷布と掛布をとりはずした布団を西野が病院へ運び込んだことも考えられるし不当ではない。(なお、三枝登志子の昭和二九年八月一八日付検察官調書(不3)では、同女が四畳半の間の押入れから布団を取り出し西野か阿部に運ばせた旨供述しているが右の布団と別の物かどうか明らかでない)。もし犯跡隠蔽のため片付けたというなら布団のみならず敷布及び掛布も取片付けるべきであるのにしていないのは何故かその理由が説明できない。

してみると、第二審判決が「逸早く」蒲団を取片付けてあつたことが外部からの侵入犯人の兇行としては考え難い余裕ある態度であり、むしろ犯跡隠蔽のためと考えられる旨判示し、茂子を犯人と認める情況証拠とすることは誤りであるといわねばならない。

(四)  「四畳半西北隅押入れの板戸が割れポスターに血痕の付着していること」について

原決定は、第二審判決が右事実は同所で格闘が行われたことを示しており西野、阿部の供述には二人の姿が押入の方に移動したのを目撃していることと照応して考えられると判示した点に関し、西野、阿部が真実目撃したものであればすさまじい格闘が行われているのであるから何らかの行動に出るのが通常であるのに、小屋へ戻つたというのは状況とそぐわないという。

しかし、西野、阿部の供述によれば、同入が目撃したのは暗闇の中で無言で動く白い影であつて、兇器をもつた争闘の姿は見ておらないのであるから、両名が夫婦喧嘩と思い大したことはないと思つて小屋へ戻つたとしても不思議ではない。

次に原決定は、小林鑑定、助川証言、松倉証言によれば、四畳半の間北側の押入横壁にかかつたテレビアンポスター紙に付着した血痕は亀三郎の(1)、(2)創によるものと考えられ、そのときは立位であつたことが推認されるから、(1)、(2)創が低い姿勢の際与えられたと認定した第二審判決とは両立し難く、ポスター紙上の血痕の存在は茂子犯人の情況証拠とならないばかりか、外部犯人の犯行との情況証拠となり得るという。

昭和二八年一一月五日付実況見分調書によれば、ポスター紙付近の壁に約一メートルの所より下方に飛沫状の血痕が付着していることが認められるが、右の血痕の由来について、小林鑑定によれば、立位の状態で受傷し創口の動脈からの出血血液が飛び散つて付着したと解され単に血液の付着した衣類や身体の一部あるいは兇器を打ち振つてできた血痕とは思われない、恐らく(1)、(2)創の細動脈枝の切断により飛沫した血痕と思われる旨述べており、松倉証言によれば、噴出した血か振り払つた血かどちらもあり得るが血痕の付着状況からみて傷口から噴出した血液とみた方がよく、その場合、壁に体面すれば(4)創もあり得るが(1)、(2)創時に(2)創が一番該当するという。他方、三上鑑定は、(5)、(6)創によりポスター及び押入の板戸に被害者の体が突き当つた際に同部の血痕が形成されたものと思考される、噴出痕だともつとたくさん付かなければならないと述べ、助川鑑定は、創口よりの血液が体表面に付着し更に流れるような状態にあつた時立位の姿勢で上体が急に動いたために振り落ちるあるいは振り払うような作用によつてこの種の抛物線状血痕が形成されたもので、血液が出た傷口は(1)、(2)創が一番可能性があると述べている。このようにポスター付近の血痕は噴出血とも打振つた血ともいずれもあり得るが、(1)、(2)創からの噴出血痕であるとした場合、付着血痕の位置や細小動脈からの出血による飛ぶ力、亀三郎の受傷後の体の動き等を考えても、(1)、(2)創は亀三郎と茂子との身長差からして亀三郎が立位であつた場合には、茂子が右創傷を与えることは不可能であり、(1)、(2)創が亀三郎の倒れた後の低い姿勢の際与えられたものであるとすると、亀三郎の倒れた位置は

ポスターより大分離れた縁側敷居付近であるというから、そのような低い姿勢の亀三郎の(1)、(2)創からポスターの高さまで血痕が飛散するかどうか疑問である。

従つて、(1)、(2)創は亀三郎が縁側敷居付近で倒れた後低い姿勢の際与えられたとの第二審判決の認定あるいは推定には疑問があるといわざるを得ない。

(五)  結論

以上のとおり本問題点に関連して新証拠として提出された資料はいずれも原判決の事実認定に合理的な疑いを生ぜしめるものであり、明白性を有する証拠と認むべきものである。

九 犯行の動機について(同補充書  第二の九)

原決定は、第一審判決が犯罪の動機等として認定したイ亀三郎が浮気者であつたこと、ロ離別した八重子の手紙により子供らとの間にすら水を差されるような不安を感じていたものと推察されること、ハ茂子が亀三郎の浮気について懊悩していたこと、ニ招待券にからむ亀三郎との口論により同人に対する憤まん、黒島テル子への嫉妬、将来に対する絶望感に駆り立てられ、いよいよ犯行の決意を懐くに至つたこと、ホ茂子が正式に亀三郎の籍に入つていないことの各事実はそれ自体果して挙示された証拠から合理的に認定し得るものか疑問があり、仮にそれらの事実が認定し得たとしても一〇年来連れ添つた夫を或る早朝突如殺害するに至る動機として不十分であり、逆に営業の順調であつたこと、子供達との関係も良好であつたこと等を総合すると、茂子が亀三郎を殺害しなくてはならないような事情は存在しなかつたとみるのが経験則に合致するという。

検察官の所論は、原決定の右判示は独自の経験則に基づき旧証拠の評価換えを行つて判決裁判所の心証にみだりに介入しその認定を非難するもので不当であるという。

そこで検討するのに、茂子の自白に犯行の動機に関する供述がないことは前にみてきたとおりである。しかして、第一審判決は前記の諸点を総合して判示の動機を認定し、第二審においても論点の一つとして争われ、第二審判決は原判決と同旨の疑問を呈する控訴趣意に対して否定の判断を示して第一審判決の認定を支持した。そこで、今回本問題に関して提出された三枝満智子の昭和二九年二月七日付検察官調書(川口1)以下の新証拠と旧証拠を総合して検討することにする。

亀三郎が女性関係にルーズな男であつたことは原決定も認めるところであるが、当時亀三郎が小学校の同級生で三枝ラジオ店の外交販売の手伝いをしていた黒島テル子と肉体関係のあつたことは、黒島テル子の第一、二審証言及び昭和二九年九月六日付検察官調書二通(第一審第一一回公判取調済)によつて明白である。そして右調書には「行く行くは私を妻にしてくれるような話をしたので私としては喜んで身を任した訳ではありませんが同人の要求を入れるに至つた」「(昭和二八年一〇月一二日ころ亀三郎と旅館に泊つた際)亀三郎は茂子は自分と貴方との仲を感付いて最近しきりにごてごてと文句を並べ夫婦仲がまずくなつているところで茂子は未だ籍も入れてないし余りぐずぐず云えば身体が弱くて役にも立たんしするから自ら進んで出て行けばよしそうでなければ自分から追出してでも貴方と一緒になるようにするからという趣旨の話をしましたので私も余り悪い気もせず又ここで関係した」「(昭和二八年一〇月二〇日ころ私方にきて関係し)亀三郎が帰る途中で『何か事があつたら知らせる』と申しましたので、私がその時はこの意味が充分判らなかつたのですが当時亀三郎さんと茂子さんの夫婦仲は相当もつれていて離縁するの自分が家出するのと云う争迄起きておりその後この様な事態が発生した時は私に知らせ私と長く交際して行くようにしようという心算で前述のように云つたと思つた」との供述があり、当時亀三郎のテル子に対する思い入れの一端及び亀三郎と茂子の間の状況を窺い知ることができる。又、身近にいて家庭内における亀三郎と茂子の仲を述べる者に亀三郎の長女三枝登志子がいるが、同女の昭和二九年九月一日付検察官調書(第一審第一一回公判取調済)によれば

「一、(略)

二、私が考えますのに母はずうつと前から父がよく浮気して困ると口ぐせのように云ふておりました。然し母からはそれ以上詳しい話は聞いておりますが兎角父の浮気を一人苦にしていた事は事実であります。

三、昨年の十月の三十一日か或は十一月一日の日から続けて三、四日程大道の家で泊つた事があります。

来た晩に風呂に這入つて風邪をひいたのかその翌る日から帰る迄ずうつと大道で頭が痛いと云つて寝ておりました。

お医者さんは来て貰ひませんでしたし熱も高いようではありませんでしたが頭が痛いと云つておりました。

十一月四日の朝阿部さんか西野さんが迎えに来て母は店に帰りました店に帰る迄はずうつと布団を敷いて寝ておりました。

四日の晩も何時ものように風呂に大道の家へ参りました。

その時母さんは今朝長井病院に行つて診て貰つて来たと云ふておりました。風邪をひいて病院に行つて来たと云ひながらも風呂に這入り店へ八時か九時頃帰りました。

それ迄にも母は腹の立つた時にはよく頭が痛いと云つて布団を敷いて寝ておりました。

今から考えると三日も四日も続けて頭が痛いと云つて大道で寝たのですからよほど腹の立つ事があつたかも判らないと思ひます。

日頃腹が立てば頭が痛いと云つてよく寝ていたからであります。

四、(略)

五、風呂から上つて話が長くなつたような時には大道で寝て帰る事がちよいちよいはありましたが二日も三日も泊まつて帰る事は絶対にありませんでした。

六、本当にお母ちやんがお父ちやんを殺したものとすれば日頃お父ちやんの浮気を私等にぐちをこぼして苦にしており又事件前に大道の家で頭が痛いと云つて三日も四日も泊まつていたのですからお父ちやんの浮気の事がもとになつてこんな事件になつたものと考える外ありません。その外私としてはお母ちやんがお父ちやんを殺すような深い緯囲はありません」

と述べ、茂子が亀三郎の浮気を苦にしていたことを明らかにしている。更に右登志子の供述にある事件前数日間大道へ行つていたこと及び旅行招待券に関することについては、茂子自身昭和二九年八月二九日付検察官調書において述べているところであり、これによれば「事件のあつた前二、三日私は主人と一寸した事ですねており、身体の調子もよくなかつたので店を出て大道の家へ泊りに行つていた。大道へ行つたのは、テレビアンラジオの販売促進のための出雲大社への旅行招待券が一〇枚近くあり、兄姉を連れていくほかに一枚余つた券について、誰にしようと私に黒島を連れて行つてあげなさいと云えといわんばかりになぞめいた事をいつたので、私も腹がたつて店を出たのである。黒島という人は前から始終店にきて泊つたりしたこともある人で主人との仲が怪しい人ではないかと思つていた人です」と述べている。しかしながら、登志子の第一審第八回公判証言では、母から父が浮気をして困るという話は聞いたがあまりそれを苦にしたり深刻に考えている様子はなかつた、事件前に来た時母が何か腹を立てるような事はなかつたとも述べていること、亀三郎の前妻女鹿八重子からの、子供達と一緒に暮らしたいから女中にでもよいから家に置いて欲しいとの手紙があつたのに対して登志子が断りの手紙を出したこと、茂子の自白に犯行の動機に関する供述がないこと、茂子がテル子に対し何らかの行動に出たという証拠もなく、茂子と亀三郎の夫婦仲が破綻に至つていたという証拠もないことなどを総合勘案すると、茂子が亀三郎とテル子との関係を苦にしていたとしても、これを茂子の亀三郎殺害の動機とするには極めて薄弱であるといわねばならない。従つてこれと同旨の原決定の判断は結局相当である。又原決定は、「将来に対する絶望感」を認むべき証拠はなく、「未入籍の事実」を茂子が悩んでいたことを認める証拠もなく、これが犯行の動機に結びつくのか明らかでないというのに対し、検察官はこの判断は不当であるというけれども、内縁の妻の地位が不安定であり、亀三郎が他の女に心を移しかけている現実に直面したとき、その立場を追われるのではないかと不安焦慮を募らせること、茂子自身妻子ある亀三郎と同棲して一子を儲けついに妻八重子を離別させてその後釜にすわつた身であれば、その感じ方には切実なものがあつたであろうと思われることなど想像されないことはないにしても、茂子が現実に将来に対する絶望感を抱いていたとか、未入籍の事実を深刻に悩んでいたと認める証拠はいずれも存在しないのである。しかも、新証拠として提出された三枝満智子、三枝皎、三枝紀之の各検察官調書及び郡貞子の原審証言により認められる、営業の順調であること、子供達との関係も良好であつたこと、判決確定後も先妻の子、親族一同が茂子の無実を確信していること等の事実を併せ考ると、茂子の亀三郎殺害の動機を推論し理由づけた第一、二審判決の判断には合理的な疑いがあるといわねばならない。この点に関する原決定の判断は不当ではない。

なお、検察官は、原決定の右判示は独自の経験則に基づき旧証拠の評価換えを行つて判決裁判所の心証にみだりに介入してその認定を非難するもので、不当であるというが、原決定は動機についても他の論点と同じく、新旧全証拠の総合的検討評価によつてなしたもので、不当ではない。

一〇 外部犯人の証跡について

(同補充書第二の一〇)

原決定は、旧証拠中には亀三郎殺害の犯人が外部より三枝方に侵入した者の仕業ではないかと疑うに足りる証拠が幾つか存在し、第一、二審においても争われ結局容れられなかつたが、新証拠と総合した場合どのように評価され得るか検討しなければならないとして、八問題点にわたつて検討に及んでおり、原決定の判断に反対する検察官の所論にかんがみ以下順次検討を加えることとする。

(一)  靴跡又は足跡

原決定は、四畳半の間に敷いてあつた布団の敷布には、真楽与吉郎証言のいう土ないし泥の付着したゴム靴かゴム草履の裏の跡と思われる靴跡二ヶ、和田福由証言のいう靴の前三分の一位で靴底とはいえないものでもないという程度のもの一ヶでラバ系の靴かゴム底の靴かゴム草履の跡の様に思われたものの二種類の靴底が存在していたことが認められるところ、右靴跡が三枝方家人や警察官、医師、看護婦、西野、阿部らのものである可能性は捜査上排除されていたから、靴跡は外部より三枝方四畳半の間に侵入した者が遺留した蓋然性が極めて大きいというのである。

敷布上の足跡あるいは靴跡については第二審判決が「犯行現場の被告人の敷布に存した足跡についても当時現場に来合わせた捜査係官の供述に相違があるが(証人和田福由、同真楽与吉郎)事件直後の混雑した状態から入つた者の足跡のつく事も考えられ直ちに外部からの侵入犯人なりとの結論に結びつかない」と判示しているのであるが、証拠関係について検討してみると、まず昭和二八年一一月五日付実況見分調書によれば「鑑識係員の手によつて綿密に足跡等について採取した結果被害者の妻茂子が使用していた敷布団の敷布より血痕の付着した足跡と思料されるもの二ヶを発見したのでこれを鑑定依頼するために立会人三枝登志子より任意提山せしめた」との記載があり、右調書を作成した真楽与吉郎の第一審第七回公判証言によれば、「土の足跡と書くべきところを右のように書き誤つたものである。この足跡は素足ではなくゴム靴かゴム草履の裏の跡と思われるもので大体靴跡ではないかと考えた。靴跡は靴の先の跡と思われるものが一寸五分位の大きさで付き、その西の方に一寸位の同様の靴跡と思われるものが付いていた。鑑識を依頼したところ県本部鑑識課で鑑識の結果、自分が発見した足跡については何もついていなかつたという事であつたが別の所から足跡様のようなものが一個出てきたということであつた」と述べている。一方、県本部鑑識係員として敷布の足跡の鑑識にあたつた和田福由の第一審第三回公判証言によれば「足跡が一個甚だ不完全なものが付いていた。踵と土踏まずの部分を除いた靴の前三分の一位の一応靴跡といえないものでもないという程度のものであつた。中越明と川口算男の履物とを対照したが違つていた。三枝方家族や店員等の履物は徳島市警の方から送つてこず対照しなかつた」と述べ、同人の昭和二九年九月二〇日検察官調書(一偽2)では「敷布に点々と付着していた血液中靴底の一端ではないかと思われる付着部分が二、三点見受けられたのでベンチジン検査をしたところ靴の先端近くの左右の端らしい物が検出された」と述べており、更に和田の右検査の手伝いをした佐尾山明の昭和二九年九月一日付検察官調書(一偽2)には「ベンチジン検査をすると足跡らしいものが二つ現われ、一つはかなり明瞭で、市警作成の現場写真(松山2)がそうである。しかしこの程度では足跡と断定するのは早計と思う。ベンチジン検査ではアイロン跡のように血痕に関係のないものでも出ることがあるし、現出した形そのものから判断しても断定しかねるからである。」と述べている。

これらの証拠によれば、真楽証言のいう靴跡というのはその後の鑑識の結果検出されなかつたのであるからその存在はかなりあいまいであり、あつたとしてもせいぜい土足跡らしいと思われる程度のものと考えられ、一方の和田証言のいう靴跡はその存在がかなり肯定されるが断定できない性状のものであつたと認められる。そして和田証言のいう靴跡が手配として図形化され(昭和二八年一一月一〇日付徳刑第一二六号添付「ラジオ商殺しの遺留品手配について」―松山3)捜査がなされこれに合致する靴や人物はついに発見できなかつたのであるが、その際対照された人物の中に三枝方家人や店員等いわゆる内部の人が入つていなかつたことは和田証言にあらわれているが、昭和二九年九月二四日西野からゴム半長靴一足を任意提出させ領置(昭和二九年九月二四日付任意提出等―不1)していることから、西野の靴が右靴跡と合致するかどうか調べている筈と思われるが、合致したという証拠はない。

ところで原決定は、西本巡査部長が現場に到着した五時四五分こらからは現場保存の対象となつていたからその時点以降に靴跡が印象されることはなく、それまでに四畳半の間に上つた蓋然性のある者は茂子、佳子ほか多数あるがこれらの者が土足のまま上つた証拠はないという。西本巡査部長がくる前最初にかけつけ四畳半の間を見分していた武内一孝巡査の証言によれば、その頃既に布団は隅の方に片付けられていたことがうかがわれるから、靴跡が敷布に印象されるとすればそれ以前の段階であると考えられるが、それまでに四畳半の間に出入りした者は茂子、佳子、西野、阿部であるところ、これらの者が靴をはいたまま四畳半の間に上つたり、歩いた証拠はない。もつとも、この点に関し、西野は「茂子に呼ばれて阿部と一緒に四畳半の間へ上つた時長靴を脱いでいたか土足のままか憶えていない」(証言)、「靴を脱いで上つたような記憶がなく履いたまま四畳半の間を通つたように思う」(昭和二九年九月二四日付検察官調書)と述べ、阿部は「ズック靴をはいていたかどうかはつきりしない」(証言)、「ズック靴を履いたまま上つたように思う」(一〇月九日付検察官調書)と述べているが、これを裏付ける証拠はなく、西野自身その後その事実を否定していること(昭和五四年七月一九日証人尋問調書)、当時の諸般の情況から西野らが四畳半の間を靴を履いたまま通つたとは到底考えられないから、西野らの前記各供述は信用できない。

このように考えると、第二審判決の前記説示は不合理であり、前示靴跡は外部より三枝方四畳半の間に侵入した者が遺留した蓋然が極めて大きいという原決定も首肯できないものではない。

(二)  懐中電灯

第一、二審は、犯行現場の四畳半の間に存在した懐中電灯について、茂子方に従前あつたもので、茂子が現場に来合わせた警察官に対し、賊が遺留したものとして提出したことは茂子の偽装工作であるとしたが、これを認定する証拠となつたものは懐中電灯と西野、阿部の各証言、茂子の自白であるところ、西野、阿部の各証言、茂子の自白の信憑性の認めがたいことは原決定のとおりであり、本件懐中電灯が三枝方の物でなく、何者かによつて持込まれ遺留された疑いが濃厚であること前記六で述べたとおりである。

(三)  新築工事場表出入口の開閉状況

原決定は、第一、二審判決が新築工事場表出入口は閉鎖されていたと認定しその証拠として掲げる隣人達の証言は推測に基づくもので傍まで行つて確かめておらず必ずしも信憑性が高くないこと、反対に戸が開いていたという三枝方家族、警察官の供述は傍まで行き具体的に述べるもので信用性が高いこと、閉つていたのであればその後開けた者がいる筈であるのに誰もそれを見ていないことからして戸は開いていたものと認めるのが妥当であり、そうすると外部から侵入した賊が新館表出入口から逃走したとする茂子の供述の有力な根拠となると判示する。

第二審判決が信用性を認めた三枝家隣人達の証言は事件直後の戸の開閉状態を述べるものであり、他方原決定が信用性を高く評価する三枝家家人、警察官らの証言はその後の戸の状態を述べるものであるから、両証拠は本来矛盾する関係に立つものでなく、第二審判決の説示も根本的には右の理解を前提としているわけであるが、なお新証拠との関係で各証拠を吟味することとする。

まず三枝の東隣に住み事件後すぐ駆けつけた新開鶴吉の証言によれば、「新築工事場の戸は開いていなかつた。傍に行つて見たわけではないが、板囲いが道路上に三尺も出ており、板戸がドア式に舗道の方へ廻して開けるようになつているので、傍に行かなくても戸が一尺程開いてもよく判る」旨述べているが、同人は直接見に行つたわけではなく、日頃見慣れた戸であるとはいえ、当時暗闇であつたから、推測で述べている同人の右供述を信用することはできない。次に、三枝方の裏に住み警察官や医者がくる前に三枝方に行つた石井雅次の証言によれば、「工事場の前の歩道を通つたが戸が開いていたとは思えない。工事場は何時も晩に大戸のようなものを閉めていたので開いていたとするば判る筈であるがそのようには思われなかつた」と述べ、第二審では「暗かつたのでよく覚えていませんが、あいていたのであれば気がついたと思う」と証言し、昭和三四年九月一四日付検察審査会調書では「開いていたように思うがはつきり記憶しません」と供述し、同人の昭和二九年九月一四日付検察官調書(一偽2)では、「最初は三枝方に泥棒が入つた様に思つていたので戸が開いておればここから入つたのではなかろうかと考えたり気付いたりするのにそのようなことがなかつたから最初通つた時は戸が開いていなかつたことは間違いない。茂子が病院へ出かけたあとすぐ帰つたがこのときも開いていなかつた」と述べているが、注意してみていたわけでもなく、記憶もあいまいであり、推測を述べたもので、同人の供述をたやすく信用することはできない。次に三枝方の裏に住み高橋病院へ医者を呼びに行つたりした田中佐吉の第一審証言によれば、「工事場の前を通つて三枝方へ行つた。工事場には板囲をしていたがその出入口の戸は開いていなかつた。病院から担架を取つて帰つた後板囲の高さは七尺位であるので泥棒なら越せるわなあと皆で話をした」旨述べたが、第二審証言では「実際に確認していない」と述べ、事件直後の昭和二八年一一月一四日付司法警察員調書(不1)では「私はあわてていたので新館の様子は見ていないので何とも申し上げられません」と述べているのに、昭二九年七月一五日付申述書及び同月三一日付検察官調書(一偽2)では「囲板は確かに何処も開いている風はなかつた。後で三枝方前で立話をした際この板囲を越えて入つたのかもしれぬと話したことがある」旨証言と同じく戸が閉まつていたことを具体的な状況とともに述べている。また自転車で五時一五分ころ三枝方前を通りかかつた際工事場付近から走り去る人を目撃した辻一夫証言は「戸が閉つていた」と述べたり、「戸が開いていたかどうかということは判りませんでした」「板戸の戸が開いていたか閉つていたかについて別に確めたことはありません」と述べている。これらはいずれも戸の近くへ行つて確かめたものでもなく、暗闇の事でもあるから、そのまま信用できず、これらの証言を総合して工事場板戸が閉まつていたと認定するには疑問があり、原決定のとおり、第一、二審判決の認定は相当でない。

なお、原決定が出入口の板戸が開かれていたと認定する証拠は三枝方家族である三枝皎、三枝登志子の供述及び武内一孝、村上清一ら多数の警察官の供述であるが、検察官はこれらは前記新開、石井、田中らが板戸の開閉状況を見たあとの状況を述べるものであるから、その後誰かによつて戸が開けられたと考えれば新開らの証言を排斥するものではないという。しかしながら、戸が誰かによつて開けられたとする明確な証拠は存在しないのみならず、新開らの証言の信用できないことは前述のとおりである。

(四)  逃走した犯人を目撃した者の存在

原決定は、第一、二審判決とも新館工事場表出入口付近から元町ロータリー方向へ走り去つた男の存在を認め、その男は中越明であつて本件とは関連がない事実であると認定したが、辻一夫、酒井勝夫の供述によれば本件犯行時刻ごろ右出入口の板戸付近から飛び出した男がいたものと認められ、他方中越明の証言はあいまいであつて同人が事件のあつた早朝三枝方新館前付近を通行したと認めるには疑問があり、従つて辻証人の目撃した男は中越明であると断定することはできないこと、右辻、酒井両名以外にも高畑良平が事件の日早朝現場から走り去つた男を目撃していることからすると、外部犯人が亀三郎を殺害してのち新館工事現場表入口の板戸のところから元町ロータリー方面へ走り去つた状況を窺うことができるという。

ところで、右の点については第一審以来問題とされ、第二審判決においては原決定と同旨の控訴趣意に対応して、辻一夫、酒井勝夫、中越明の各証言につき詳細に検討を加えその判断が示されている。辻証人は、「午前五時一〇分から一五分位のころ自転車で三枝方前を西から東に約二〇メートル位手前まで来たとき工事場の処から一人の男が飛出したように直感した。その男は急ぎ足で西に向いすぐ交差点を南へ曲りその先の新町橋の方へ走つて行つた。少しその後を追つてすぐ引返したところ被告人方前あたりで奥の方から『お父さん』とか『泥棒』とかいう女の悲鳴が聞こえた。その時工事場の戸は閉つていた。その男は工事場から飛出したように直感したが、暗い時であつたのでその男は中から飛出したのではなく工事場の前付近に立つていたのが走り出したのかもしれない。」と述べているが、同人は事件発生の翌日警察官に同旨の目撃の供述(昭和二八年一一月六日付)(不一)をして「女の叫び声がし、建築場の階下より黒い影がバタバタと飛び出し西へ走り、左に折れて元町通りへ出た」と述べている。一方中越証人は、「川口算男と船の出入に乗じて自転車を窃取することを企て、中州港で船が午前四時過ぎに着いてから三〇分程いたが果たさず帰途につき、途中の道順は十分憶えていないが川口と斎藤病院前で別れ一人被告人方前を通つて元町ロータリーを横切つた。その際人声に驚いて走り出したことはないかと取調べで聞かれ検事にそのように述べたことはあるが現在そのような記憶はない。川口に遅れぬよう元町ロータリーの所を藍場町の方へ走つた記憶はある」と述べ、記憶のあいまいなところはあるが事件時ころ三枝方の前を通つたことやロータリー付近で走つたことを述べており、川口算男の昭和二九年八月一二日付検察官調書(第一審第一七回公判取調)に「午前五時過ころ中越と途中で別れ同人は被告人方の方向に西へ進みその後又同人と一緒になつた」旨の供述をしている。第一、二審判決は辻証人目撃の人物が中越であると認定しているが、事件のあつた早朝三枝方新館工事場前を走つて通つた者が中越以外になかつたと確定できる証拠もなく、辻証人目撃の男の走り去つた方向と中越の走り去つた方向が異なること、辻証人が中越の顔を確認していないことなどを考えると、第一、二審判決のように辻証人目撃の人物は中越明であると断定することは困難である。もう一人の証人酒井勝夫は「かまぼこを仕入れての帰り午前四時四五分ころ被告人方前を自転車で西進していたとき『火事だ』というような声を聞き、左斜めの所でバタッと物音を聞きふりかえると黒い服の男が新築工事場の板戸の倒れた上に片足をかけ西に走り出したので少し後を追つた」と証言しているが、工事場の板戸が倒れていなかつたことは証拠上明白であつて事実に反するうえ、同人の昭和三〇年九月二日付、同月四日付各検察官調書(第一審第一五回公判取調)で述べているようにその点は想像をまじえて誇張していつたとしても、時間的に本件犯行のころより前になるのでその人物は本件と無関係ということになる。又、酒井のかまぼこの仕入先の妻橋本アイノの昭和三〇年九月二日付検察官調書(第一審第一五回公判取調)によれば、「店は五時以降に開けており、事件当日酒井は『来る途中三枝電気の前で人が沢山たかつていた。家の中から誰かが表に走つて出て行つたが泥棒でも追つかけていつたんだろう』と話していた。酒井は非常に面白い人で少し話が大きい。」とあり、酒井証言は外部犯人を裏付ける資料としては十分ではない。又原決定は、新証拠として高畑良平の昭和二八年一二月一一日付司法警察員調書(松山3)を挙げ、同人は事件の日の早朝元町ロータリー付近を走り去つた男を目撃していると判示するが、右調書は「春藤文夫の操縦する自転車に乗り一番列車の着く前ころの徳島駅の売店へ行つての帰り、元町ロータリーのところへ来たとき春藤があれとんし(盗人)と違ふんといつて自転車を踏んで追つかけたが、その男が立止まつて振向いて顔を見合わせたが何でもなかつた」旨の供述であり、顔を見合せた結果その男に異常は感じなかつたのであるから犯人らしい人物とはいえないばかりか、同行の春藤文夫の供述調書(松山3)には「高畑と歩いて行つた。駅の売店で煙草を買い帰つた」と述べているのであつて、不審者のことは触れておらず、高畑の右供述の人物が逃走する外部犯人といえるかどうかかなりの疑問がある。

(五)  侵入し亀三郎を殺害した犯人を目撃した者の存在

原決定は、茂子とその娘佳子は外部から侵入した犯人を目撃しており、その供述はいずれも具体的でほぼ一貫し、茂子の供述中犯人を追つて大工小屋前付近まできて逃げるのを目撃したとの部分はその道筋に茂子の血痕が点々と落下しているところから客観的裏付けを伴なつており、佳子の供述も第二審判決のように一〇才の少女であるとしてこれを排斥するのは妥当でなく、両名の供述はその供述の推移、内容の迫真性、具体性からして真実外部犯人を目撃した旨の供述であると認めるのが妥当であるという。

そこでまず茂子の目撃内容についてみると、二通の自白調書を除けば、茂子の供述は、外部から侵入した賊に亀三郎が殺害され賊が裏口より逃げたあと自分もそのあとを追つて工事場裏口まで行つたという点でほぼ一貫しているとみられるが、賊の人相、着衣等については必ずしもそのようにみることはできないと思われる。すなわち、昭和二八年一一月五日付調書では「(賊が入つてきたとき)部屋の中は真つ暗で相手の人相、着衣等については判らなかつた。(賊が胸部を突き刺したとき)私ははつきりと賊が布切で覆面をしているのを見た。米田が主人を恨み殺したのではないかと思う。」、昭和二八年一一月二〇日付調書では「(賊に刺されたとき)たしかに覆面のようなものをしているように思つた。人相、着衣等は部屋の中が真つ暗で全然わからなかつた。米田でないとしたらあるいは物盗りの仕業かもしれない」、昭和二八年一二月一〇日付調書では(犯人のことは黒の洋服らしい物を着て多分背広と思うがはつきり判らない。只白いワイシャツが見えていた。体格は小さい方で若い人の様に思う」、昭和二九年八月五日付調書では「主人と同じ位の体格の男が入つてきた」、昭和二九年八月一四日付調書では「犯人の服装についてはよく判りませんが白い物ではないものを着ていた。首の下の方は白い物が見えていたので背広を着ており胸のワイシャツが見えておつたのではないかと思う」、昭和二九年八月二九日付調書では「事件直後警察官から犯人に心当たりはないかと尋ねられ店に恨のある者としては前に店に勤めていた米田であろうと考えて犯人は米田と思うといい、犯人の背拾好や服装を米田に合うように話した。賊の服装は着物でないことははつきり判りましたがヂャンバーか背広かそのへんはよく判りません」、第一審第二回公判では「賊の服装は見えなかつたものか私がよう見なかつたものか賊が電池をぱつとつけた時に見た筈なのに記憶がはつきりしません。しかし白つぽいものでなかつたかと思う。確かはつぴを着ていたと思う」、第二審第六回公判では「暗いのとびつくりしてしまつたのではつきりは覚えないが顔に覆面をしていたような気がする。背丈は主人と同じ位だつた」と述べているが、犯行時の明暗度や茂子の心理状態に残虐な犯行による衝撃等を考慮すれば、茂子のこれらの供述の相異あるいは思い違いがあつても不思議はない。原決定が客観的裏付けという新館裏付近の血痕については、原決定のように、茂子が犯人を追つていつたと認定すれば裏付けとなるが、反対に第一、二審判決のように、茂子が匕首で店員の西野に電線を切らした後これを受取り、「外部からの犯人が兇器を新館風呂場焚口付近に遺留して逃走した如く装うため、茂子が匕首を該箇所に立てかけた」との認定では、匕首を立てかけた場所がちようど血痕の道筋にあるからといつて判決認定の裏付けともなり得るものではない。この匕首は刃先を上に壁に立てかけられていたものであり、不自然な感もあるが、このような形で匕首が遺留されていたことが直ちに外部犯人が遺留したことを否定する根拠とはなりえない。偽装工作であればかえつてそのような形で遺留しないのではないかとも思われる。

次に佳子の目撃内容について検討すると、同女の供述は、昭和二八年一一月五日付警察官調書では「母が大きな声を出しながらゆすり起してくれたので眼をさますと電灯はついていなかつたが薄明るかつたので見えたが、父と母が立つてその向いに眼と顔だけ出して顔だけを包んで覆面をしたうえ紺色に良く似た青色の洋服を着た泥棒がいた。背は父と同じ位で頭は髪をのばし洋服の下は白いシャツを着てネクタイはむすんでなかつた」、昭和二八年一一月二九日付検察官(浜)調書では「背広のようなものを着てネクタイはしていないが白いワイシャツが見えた。頭の髪は長く延ばして口と鼻のあたりに黒か茶色の布で覆面をしていた」、昭和二九年八月一三日付検察官(村上)調書(一偽2)では「これまでの話は皆嘘で、父が倒れているのが判つた後で人が泥棒が入つて父を殺したと話していたので想像して言うたものである」、昭和二九年八月一八日付検察官調書では「犯人は背広を着ていた。上下共に紺色であつた。ネクタイはしていなかつたと思う。チョッキは着てなかつた。覆面し、薄茶色の布で鼻の下を隠していた。髪の毛は分けていた。背丈は父位でワイシャツの上に背広の上衣を着ていたように思う」、第一審第六回公判証言では「父位の高さの人。紺色の洋服を着ていた。ネクタイは判らない。茶色の薄いので目の直ぐ下まで覆面をしていた。髪の毛を大てい分けていたと思う。チョッキは判らないがワイシャツは見えていた」、昭和三三年八月一二日付人権擁護局調査書では「暗かつたのではつきり見たわけではないから賊がどんな頭、どんな顔をしてどんな服装をしていたかはつきりいうことはできません」と述べるものであるが、右昭和二九年八月一三日付検察官(村上)調書については、佳子は検察官(村上検事)に泥棒を見たといつたのに嘘を言えと叱られて無理にそのような内容にさせられたと証言し、他方取調べに立会つた検察事務宮は、「村上検事が取調べの際時々怒つていた、佳子は村上検事に追及されて泣き出した」旨証言し、その任意性に疑いがあるので右調書を別にすると、佳子の犯人目撃状況に関する供述は一貫しているといつて差し支えない。しかし、犯人の服装等についての詳細にわたる供述は、早暁の暗い部屋で年令一〇才の少女が眠つている中を急に起こされ、犯人を目撃し、助けを求めるために外に出さるという突発的事態においてはたしてそれだけの観察ができるであろうかという疑問がないではないが、この点第二審判決は佳子の供述は茂子の暗示に基づくものと判示し、原決定は佳子が供述しているような内容を最初に駆けつけ四畳半の間にいた茂子に会つた武内一孝巡査の第一審第五回証言によれば、茂子は、泥棒が入り主人を刺し裏から逃げた。その泥棒は米田という人に違いないからすぐ手配してくれ、犯人は覆面をした茶の背広の上衣に紺のズボンをはいた背の高い男であつたと犯人の服装等を述べ、その時茂子と並んで座つていた佳子に茂子があれは米田さんだろうといつたら佳子はうんそうじやと答えていたと述べていること及び年齢から考えると、佳子の供述のうち服装等の詳細については周囲の者の発言を無意識のうちに受入れた可能性があり措信できないが、その余の点については、同女の証言能力、事件直後から一貫して犯人目撃を供述していることから考えて同女が殊更虚偽を述べていると思えず、犯人目撃の供述は措信することができる。もつとも事件の朝斎藤病院に入院中の茂子に会いに行つた徳島新聞記者井村幸男は第一審第六回公判において、病室の前に立つて中の話を聞いていると茂子が佳子に対しこの事はお母さんと佳子ちやんが知つていることだから誰にもいわないことにしようと二、三回話していたと証言するが、これを裏付ける証拠もなく、茂子や佳子の供述及び病院の検証調書からみて、到底信用できないものである。

以上によれば、原決定の本問題点に関する判断は相当である。なお検察官は、原決定が茂子、佳子の犯人目撃供述についてこれを肯定するのであれば、西野、阿部の、茂子と亀三郎との格闘目撃供述、証言を明暗度の理由で否定したのは同一条件下の目撃であるだけに不当であるというが、屋外から屋内を離れてみると場合と屋内において至近距離で目撃する場合の人物の見え方に差異のあることは経験則上明らかであるから不当ではない。

(六)  侵入し逃走した犯人の痕跡

原決定は、新旧証拠の中には三枝方に侵入し亀三郎を殺害して逃走した犯人の痕跡と考えられるものが幾つか存在するとして、(一)新築工事場二階から通じる東側窓枠に存した「指絞二ヶ、掌絞一ヶ」、(二)新築工事場表出入口の柱に付着した人血、(三)新築工事場板戸付近に落下していた人血、(四)犯行直後における警察犬による追跡の事実を指摘している。

(一) については、和田福由作成の鑑定書によれば、新築工事場二階から三枝方屋根上に通ずる東側窓枠に「指絞二ヶ、掌絞一ヶ」が印象されていたことが認められるが、同鑑定書には「窓枠(檜桟)の削られた滑面に少くとも一週間以前に印象されたもので本件犯行に関係はない」と記載され、和田福由の第一審第三回公判証言においても確認されているところであつて、原決定の判示は相当でない。

(二)については、昭和二八年一一月五日付実況見分調書に「入口の板囲の柱に僅かの血痕と思われるものが一、二点付着」と記載され、同調書の作成者の真楽与吉郎の第二審証人尋問調書では「佐尾山技官に観て貰つたら人血であるとのことでした」と証言しているが、和田福由の第一審第三回公判証言では「小豆の半分大の血が付いていたが非常に薄く新鮮さの点では血液かもしれないという程度で採取して帰つたが血液型も検出できなかつたのではないかと思う」とあり、今回原審で提出された右和田の昭和五三年七月六日付検察官調書、佐尾山明の同年六月一三日付検察官調書をも参酌して考えると、右の血痕は古くてごく少量のものであるから、工事関係人の血液とかその他の本件犯行と関係のない人の血液とみることもできる。

(三)については、真楽与吉郎の第二審証人尋問調書には「道路ぶちの入口のところに血が落ちていたように思います」との証言があるが、同人作成の実況見分調書にはその旨の記載はなく、右証言でもその位置、形状等について確認されていないので真楽証言の正確性には疑問があるのみならず、村上清一の第一審第三回公判証言によれば、新築工事場の中からは誰も血痕を発見していないと述べている。

(四)については、西本義則の昭和三四年九月一四日付検察審査会調書(一検審)に警察犬を傭つて犯人の逃走経路を調べさせると犬は現場から元町のロータリーの池のところまで二度も走つて行つたとあるが、臭源等実験の経過が明らかにされておらず右の事実に証拠価値を認めることはできない。

(七) 電話線、電灯線の切断、遺留されていた匕首

右の点については既に検討を加えたものである。

一一 結論

以上により、新旧証拠の総合評価を経た結果、三枝亀三郎殺害事件の真犯人は亡冨士茂子である旨断定した確定判決に対し、亡冨士茂子は無実であることが明らかな証拠が新たに存在するに至つたというに充分であるとする原決定は正当である。

よつて検察官の抗告は理由がないのでこれを棄却することとし、刑訴法四二六条一項(後段)により、主文のとおり決定する。

(栄枝清一郎 川上美明 田尾健二郎)

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